李白詩 01 |
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李白詩1訪載天山道士不遇 2峨眉山月歌 3江行寄遠 4秋下荊門 5渡荊門送別 6望天門山 7金陵酒肆留別
はじめに
■ 李白の父親の身分・職業については何もわかっていない。一般的に、李白の家は異民族の出で、西域から蜀に移り住んできたということになっている。本当いい民族なのか身分的な問題のある出自なのかわかるものは残っていないようだ。
しかし、李白には兄と弟がいたが、李白だけが教育を受けてけている。教育を受けることは、官吏を目指すことだ。
李白は幼いときから頭がよく、父親にこの子に教育をさずけて官吏にしようという気持ちと必要な資金があった。知識人になるためには字を学び書を読む必要がある。学問をするためには寺院にこもって、その蔵書を読む必要があった。
216 李白 1
訪載天山道士不遇
犬吠水声中、桃花帯露濃。
犬の吠え声 谷川の流れる音、桃の花びらは 露に濡れて鮮やかである
樹深時見鹿、渓午不聞鐘。
木立は深くときおり鹿の姿がみえ、真昼の谷間には鐘の音も聞こえない
野竹分青靄、飛泉挂碧峰。
竹林のまわりに青い靄がたなびき、滝が飛沫(しぶき)をあげている緑の山にかかっている
無人知所去、愁倚両三松。
尋ねる道士はいない 何処へ行ったか、思いにふけっていつ傍らに 生えている松二三
●載天山の道士を訪ねて遇わず
李白は@隠者にあこがれ、A隠者を訪ねて会わず という流行最先端の詩である。若い李白は流行感覚で詠ったようである。尋ねていって、はあーいっと出てきたら、詩にならない。
李白は十八歳のころには郷里の近くにあった載天山の大明寺に下宿して読書に励んでいる。
詩は載天山に道士を訪ねていって会えなかったときのもので、十六、七歳で本格的に学問をはじめたころの作品。こまやかな観察と少年のころの李白の淳朴な姿が写し出されていて、初期の習作のなかでは佳作に属する詩だ。
訪載天山道士不遇
犬吠水声中、桃花帯露濃。
樹深時見鹿、渓午不聞鐘。
野竹分青靄、飛泉挂碧峰。
無人知所去、愁倚両三松。
●載天山の道士を訪ねて遇わず
犬は吠(ほ)ゆ 水声(すいせい)の中(うち)
桃花(とうか)は露を帯びて濃(こま)やかなり
樹(き)は深くして 時に鹿を見(み)
渓(たに)は午(ご)にして 鐘(かね)を聞かず
野竹(やちく)は青靄(せいあい)を分け
飛泉(ひせん)は碧峰(へきほう)に挂(か)かる
人の去(ゆ)く所を知る無し
愁(うれ)えて倚(よ)る 両三松(りょうさんしょう)
李白が24歳で蜀を旅立つまでの略歴
717年開元5年17歳載天山に隠れる。
718年開元6年18歳
719年開元7年19歳・李白 豪放で恬淡な生活。任侠徒に加わり殺傷させる。
720年開元8年20歳蘇?に認められる。
721年開元9年21歳成都、峨眉山に遊ぶ。
722年開元10年22歳2 岷山に隠れる。
723年開元11年23歳
724年開元12年24歳 ・李白 蜀を発。江陵、洞庭湖など巡る。「峨眉山月歌」
李白は一定の学問を終えると、山を降りて地元の知識人や道士と交わり、蜀地を遊歴して見聞を広める。
721年 李白が二十歳になったとき、礼部尚書(正三品)をしていた蘇?(そてい)が左遷され、成都にあった益州大都督府の長史(次官)になって綿州のあたりを通りかかる。李白は自作の詩を蘇?に披露して文才を認めてもらおうと試みますが、蘇?は李白の才能を認めた。
723年 二十三歳のころには、広漢(四川省梓橦県)の太守(刺史)が李白を貢挙の有道科に推薦しようとしましたが、李白は断っています。李白には貢挙を受けられない事情があった。したがって詩文の才能で官に就くことを目指していた。
724年 開元十二年秋、二十四歳の李白が蜀を離れて江南に向かったのも、官途につく早道と考えたものである。
成都の壁下を錦江が流れ、錦江が成都の西を流れる岷江(みんこう)に合流してすぐ、清渓(地名)という渡津(としん)がある。詩はその渡し場を船出した時の作品で、峨眉山(がびさん)に半月がかかっているのを見ながら、故郷との別れの感慨を詠うものだ。
「三峡」は有名な長江の大三峡ではなく、嘉州(四川省楽山市)にあった小三峡のようだ。「平羌江」と岷江の一部で別の川ではない。最後の句の「君」については、恋人と、月とに掛けている。
なお、船出の地ははっきりしていない。成都の錦江にある渡津だ。船出してすこし落ち着いたころ清渓を通過し、詩を作る。船出して最初の旅の目的地は、渝州(重慶市)だ。
李白 2
峨眉山月歌
峨眉山月半輪秋、影入平羌江水流。
夜発清渓向三峡、思君不見下渝州。
峨眉山にかかる秋の半輪の月
月のひかりは平羌江に映ってきらきらと流れゆく
夜中に清渓を船出して三峡にむかう
この美しい月をもっと見続けていたいと思うが(船が下ると山の端に隠れ)船は渝州にくだる
峨眉山月半輪秋、影入平羌江水流。
夜発清渓向三峡、思君不見下渝州。
峨眉山月の歌
峨眉 山月 半輪(はんりん)の秋
影は平羌(へいきょう)の江水(こうすい)に入って流る
夜 清渓(せいけい)を発して三峡に向かう
君を思えども見えず 渝州(ゆしゅう)に下る
李白 3
江行寄遠
刳木出呉楚、危槎百余尺。
疾風吹片帆、日暮千里隔。
別時酒猶在、已為異郷客。
思君不可得、愁見江水碧。
江行して遠くに寄す
小舟を準備し呉楚の地へ旅立つ、危ないと思うほど大きくてぼろ舟。
疾風は帆をはらんでくれる、一日で千里、進ませる
別れの時の酒がま残っているほどなのに。こころはすでに異郷の旅人となる
君を思うが会うことはできない、愁い心でみるのは江水の碧(みどり)だ
この詩は嘉州を過ぎて戎州(四川省宜賓市)へ向かうあたりでの作。題に「寄遠」(遠くに寄す)とある。故郷の家族に送ったのだ。
自慢の詩が武器とはいえ、当てもない旅なのだ。普通、官吏の場合は一日に一駅亭が設けられている。
李白は遊学が目的。一般人には駅亭の利用は認められていないので、中国では「抱被」(ほうひ:旅をするのに、寝具、着替えや炊飯用具まで持っていく)が当たり前とはいえ、荷物は相当な量になる。
李白は更に愛用の琴と剣を持参している。長江を利用しての船旅になる。
初句に「刳木」(こぼく)とあるのは、「刳り舟を造ること」から、唐代では船旅の準備をする意味につかう。李白は父親から長さ30mの小舟を用意してもらったのだ。「危槎 百余尺」と述べているので30m余の舟ということになる。長江の流れと、風を受けて一日千里も進んだ。故郷に美人の彼女を残している。「君を思うけど逢えない」と書いて送ったのだ。
男は立身出世をして、故郷に錦を飾るのが仕事、女は、それをじっと耐えて待つのが美徳とされていた。千三百年前の話だ。人間扱いされる1割か2割階級の話だが、残りの人は律令体制だから、均田制で農地を与えられ、農作物の半分以上と別に府兵制で一家に一人の兵役を課せられる。したがって、一般の家庭でも働き頭は女性だったのだ。
刳木出呉楚、危槎百余尺。
疾風吹片帆、日暮千里隔。
別時酒猶在、已為異郷客。
思君不可得、愁見江水碧。
刳木(こぼく)して呉楚(ごそ)に出(い)づ
危槎(きさ) 百余尺
疾風 片帆(へんぱん)を吹き
日暮(にちぼ) 千里を隔(へだ)つ
別時(べつじ)の酒 猶お在り
已に異郷の客と為(な)る
君を思えども得(う)可からず
愁(うれ)えて見る 江水の碧(へき)
李白たちの舟は、長江三峡の急流を無事に下って荊門に着くことができた。あたりははや晩秋の気配。「荊門」は山の名で、長江の南岸、宜都(湖北省枝城市)の西北にある。対岸の虎牙山と対しており、昔は楚の西の関門といった趣き。蜀の東方、湖北・湖南地方への出口ということになる。
李白4
秋下荊門
霜落荊門江樹空、布帆無恙挂秋風。
此行不為鱸魚鱠、自愛名山入炎中。
霜は荊門に降り 岸辺の樹々も葉が落ちた
帆に事はなく 秋風をはらんで立っている
こんどの旅は 鱸魚のなますのためではない
名山を愛し 炎渓の奥へ分け入るのだ
李白はここで、ひとつの決意を口にしている。これからの旅は名高い寺を訪ねて勉強をし、東の果て「炎中」(浙江省)まで分け入るのだと意気込んだ。炎中は炎渓の流れる地で、六朝の時代から文人墨客の閑居・風雅の地として有名であった。そうしたところを訪ねて有名人と交わりたいのが李白の目的であった。
秋下荊門
霜落荊門江樹空、布帆無恙挂秋風。
此行不為鱸魚鱠、自愛名山入?中。
秋 荊門を下る
霜は荊門(けいもん)に落ちて江樹(こうじゅ)空(むな)し
布帆(ふはん) 恙(つつが)無く 秋風に挂(か)く
此の行(こう) 鱸魚(ろぎょ)の鱠(なます)の為ならず
自ら名山を愛して?中(せんちゅう)に入る
湖北地方に出た李白らが、足をとどめたのは江陵(湖北省沙市市)だ。江陵は荊州(けいしゅう)の州治のある県で、唐代には中隔城壁が設けられ、南北両城に区分された大城である。大都督府の使府も置かれ、軍事的にも重要な都市であった。李白と呉指南は江陵で冬を越し、地元の知識人と交流して翌年の春までを過ごす。
李白 5
渡荊門送別
渡遠荊門外、来従楚国遊。
山随平野尽、江入大荒流。
月下飛天鏡、雲生結海楼。
仍憐故郷水、万里送行舟。
荊門を渡って送別す
遠く荊門に外までやってきた
はるばると楚の国へ旅をする
平野が広がるにつれ 山は消え去り
広大な天地の間へと 江は流れてゆく
月が傾けば 天空の鏡が飛ぶかとみえ
雲が湧くと 蜃気楼が出現したようだ
だがしかし しみじみと心に沁みる舟の旅
故郷の水が 万里のかなたへ送るのだ
李白は江陵で当時の道教教団、最高指導者の司馬承禎(しばしょうてい)と会っている。司馬承禎は玄宗皇帝から幾度も宮中に召され、法?(ほうろく・道教の免許)を授けるほどに信頼された人物だ。司馬承禎は南岳衡山(こうざん)での祭儀に参加するため湖南に行く途中で、江陵にさしかかったのだった。すでに高齢に達していた司馬承禎に李白は詩を呈し、道教について教えを乞うた。司馬承禎が李白を「仙風道骨あり、神とともに八極の表に遊ぶべし」と褒めた。
725年 開元十三年の春三月、二十五歳の李白と呉指南は江陵に別れを告げ、「楚国の遊」に旅立ちます。詩は江陵を去るに当たって知友に残した作品で、留別の詩。
李白は眼前に広がる楚地の広大な天地に意欲をみなぎらせ、同時に「仍(な)お憐れむ 故郷の水 万里 行舟を送るを」と感傷もにじませる。
渡荊門送別
渡遠荊門外、来従楚国遊。
山随平野尽、江入大荒流。
月下飛天鏡、雲生結海楼。
仍憐故郷水、万里送行舟。
渡ること遠し荊門(けいもん)の外
来りて従う 楚国(そこく)の遊(ゆう)
山は平野に随いて尽き
江(かわ)は大荒(たいこう)に入りて流る
月は下りて 天鏡(てんきょう)飛び
雲は生じて 海楼(かいろう)を結ぶ
仍お憐れむ 故郷の水
万里 行舟(こうしゅう)を送るを
江陵を発った李白と呉指南は、長江を下って岳州(湖南省岳陽市)に着く。岳州の州治は岳陽にあり、南に洞庭湖が広がっている。唐代の洞庭湖は現在の六倍もの広さがあったので、まるで海だ。二人は夏のあいだ湖岸の各地を舟でめぐり歩く。洞庭湖に南から流れこむ湘水を遡って、上流の瀟湘(しょうしょう)の地へも行った。
李白 6
望天門山
天門中断楚江開、碧水東流至北回。
両岸青山相対出、孤帆一片日返来。
天門山を割って楚江はひらけ
紺碧の水は東へ流れ 北へ向かって曲がる
両岸の山が 相対してそば立つなか
帆舟がぽつり かなたの天から進んできた
夏の終わりに、呉指南が湖上で急死。李白は旅の友を失い悲しみに打ちひしがれる。友の遺体を湖畔に埋葬して旅を続ける。岳陽を出て長江を下ると、やがて鄂州(湖北省武漢市武昌区)に着く。鄂州の江夏県城は大きな街だ。ここで暫く体を休めたあと、江州(江西省九江市)へ向かった。江州の州治は尋陽(じんよう)で、南に名勝廬山(ろざん)がある。
長江は江州から東北へ流れを転じて、やがて江淮(こうわい)の大平原へと流れ出てゆく。天門山を過ぎるところから長江は真北へ流れ、やがてゆるやかに東へ移ってゆく。北へ向きを変えた長江の東岸に博望山、西側に梁山が向かい合い、山の緑が印象的であった。それを割るようにして長江は楚地から呉地へと流れてゆく。
この詩を詠った時の李白は、帆舟が一艘、天の彼方から進むように、水平線のあたりからこちらに向かって近づいてくる。李白はそれを自分の舟の上で見ながら詠っている。
天門中断楚江開、碧水東流至北回。
両岸青山相対出、孤帆一片日返来。
天門山を望む
天門(てんもん) 中断して楚江(そこう)開き
碧水(へきすい) 東流して北に至りて回(めぐ)る
両岸の青山(せいざん) 相対して出で
孤帆(こはん) 一片 日返(にっぺん)より来(きた)る
天門から北へ流れていた長江が東へ向きを変えると、舟はやがて江寧(こうねい・江蘇省南京市)の渡津(としん)に着く。江寧郡城は六朝の古都建康(けんこう)の跡である。雅名を金陵(きんりょう)といい、李白はほとんどの詩に「金陵」の雅名を用いている。金陵の渡津は古都の南郊を流れる秦淮河(しんわいか)の河口にあり、長干里(ちょうかんり)と横塘(おうとう)の歓楽地があ。そして酒旗高楼が林立している。
李白 7
金陵酒肆留別
風吹柳花満店香、呉姫圧酒喚客嘗。
金陵子弟来相送、欲行不行各尽觴。
請君試問東流水、別意与之誰長短。
風は柳絮(りゅうじょ)を吹き散らし 酒場は香ばしい匂いで満ちる
呉の美女が酒をしぼって客を呼び 味見をさせる
金陵の若者たちは 集まって別れの宴を開いてくれ
行こうとするが立ち去りがたく 心ゆくまで杯を重ね合う
どうか諸君 東に流れる水に尋ねてくれ
別れのつらさとこの水は どちらが深く長いかと
李白は秋から翌年の春にかけて、金陵の街で過ごし、地元の知識人や若い詩人たちと交流した。半年近く滞在した後、726年開元十四年、暮春に舟を出し、さらに東へ進む。詩は金陵を立つ時の別れの詩で、呉の美女がいる酒肆(しゅし)に知友が集まり、送別の宴を催してくれる。
金陵酒肆留別
風吹柳花満店香、呉姫圧酒喚客嘗。
金陵子弟来相送、欲行不行各尽觴。
請君試問東流水、別意与之誰長短
金陵の酒肆にて留別す
風は柳花(りゅうか)を吹きて 満店香(かん)ばし
呉姫(ごき)は酒を圧して 客を喚びて嘗(な)めしむ
金陵の子弟(してい) 来りて相い送り
行かんと欲して行かず 各々觴(さかずき)を尽くす
請う君 試みに問え 東流(とうりゅう)の水に
別意(べつい)と之(これ)と 誰か長短なるやと