77  78 79
79 81
82 83
84
85
90
92
96  97


漢詩(1)杜甫 高胼
1.水檻遣心  杜甫 
2.江村 杜甫   
3.山亭夏日 高駢
漢詩(2)  李商隠
1.夜雨寄北  
2.嫦娥  3.漢宮詞
4.登樂遊原  
5.錦瑟  6.瑤池 
杜甫の年譜
0.はじめに   
1.青年期    
2.長安仕官活動10年
3.仕官と安禄山の乱
4.官辞し乱を避て紀行
5.成都浣花渓草堂 
6.南国漂泊  

 杜甫李白を詠う

 王維ものがたり
1.生誕から26歳 

   












 ● 田園楽 七首

 ● もう川集 20首
李白ものがたり
 李白詩  
 李白ものがたり  
 杜甫を詠う2首と1首
王維・李白・杜甫  その時
杜甫10歳・李白21歳・王維23歳
杜甫25歳・李白36歳・王維38歳
杜甫35歳・李白46歳・王維48歳
    (安史の乱)
  ●安禄山の叛乱
  ●叛乱の背景
各時代の概略と詩人



4.唐時代と詩人
5.宋時代以降
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杜甫の詩年譜      http//:kanbun-iinkai,com     

杜甫の詩年譜



このページは  杜甫の詩年譜   のページです。

■ はじめに
杜甫は、11歳年上の李白とともに唐を代表する詩人であり、中
国では「詩聖」として現代においても評価は一級である。。字は子
美。襄陽(湖北省)の杜氏の出であるが、生まれたのは鞏県(河
南省)洛陽近郊である。
 杜甫は自身の詩のなかで、杜陵(長安)の杜氏の出であるこ
と、杜陵の杜氏は本家であり、生まれはその分家の襄陽の杜氏
である。杜甫の祖父杜審言(としんげん)は、則天武后の時代の
初唐詩人として有名であった。父の社閑は、地方官で終わった。
このように、杜陵の杜氏は名門であり、自らも官僚になることを志
し、科挙の試験(官吏採用試験)を何度も受験したが、合格せ
ず、44歳まで職もなく浪人生活をしている。

 杜甫の生まれた家は現在の鞏県から東北へ12kmほど行った
城関という町にあり、ここが旧鞏県城の地と言われています。町の
郊外に南瑶湾(なんようわん)という集落があり、黄土の崖に穿た
れた土室(窰洞:ヤオトン)が杜甫の生家として保存されています。

● 杜甫の詩 全作品 区分と解説の表  漢文委員会総合サイトの詳細区分です。

77 青年期 78李白と遭遇 158 若き思いで 79李白と別離 李白を詠う12 81叛乱軍捕縛
82左遷、苦悩 83官を辞すV 199三吏三別 84 秦州の詩 85同谷成都紀行 90成都草堂
92成都草堂2 96雲南・菱州 97漂泊・洞庭湖

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■ 自伝「壮遊」「昔游」「書懐」による青年期
735年24歳
五言古詩 遊龍門奉先寺(已従招提遊)
 洛陽にとどまって、龍門の奉先寺を訪ねている。
則天武后を模した高さ17mの廬舎那仏 (761年
に完成)がある。
(765)五言古詩 「若き思いでを詠う 『壮遊』(放蕩斉趙間)
旅の連れは「蘇侯」(後、蘇 源明)「青丘」で狩りをします
736 25歳七言律詩    題張氏隠居二首 杜甫 
   ・斉趙に遊ぶ時 張氏の隠れ家に書き付けた詩
73726歳
五言律詩  登袁州城樓 
 ・河南・山東に放浪生活を送っていたころ、?州都督府司馬の官にあった父の杜閑を訪れた折の詩。

七言律詩    與任城許主簿游南池 
  任城県の主簿許氏とともに県城の南にある池に遊んだことを作る。



〃七言律詩    封雨書懐走邀許圭簿 
  袁州 任城での作 雨を眺めながらおもうところを書き付けて、使いを走らせ許主簿をむかえたことをのべる。
製作時は開元二十五年頃であろう。製作の地は作者が袁州に在って事かを以て袁州に来ていた許氏をむかえたともみられ、或は作者が事を以て任城に赴き其処に寓居して許氏をむかえたともみられよう。前に任城の南池に同遊した詩があるので、蓋し任城での作とみるべきか。
738年三月、唐軍、吐蕃を破る。六月、唐軍、契丹を大いに破る。
739年八月、唐軍、突蕨に大勝す。李林甫、吏部尚書となり、中書令を兼ねる。
740年この年、五穀豊かに稔り、米価は斗二百に満たず、天下、泰平を謳歌す。張九齢・孟浩然死す。
741   30歳
五言古詩 望嶽   袁州から北80kmに泰山があり、足を延して「望嶽」を詠んだ。詩は杜甫の残された作品の中では初期の名作


五言律詩  巳上人茅粛   巳上人が茅斎に遊んで作った詩である。開元二十九年頃の作、作地は不明。
洛陽に帰り、陸渾荘を築く。「おば」が亡くなり、寒食日に遠祖杜預を祭る。妻を迎えた
741  30歳
五言律詩 房兵曹胡馬詩(胡馬大宛名)   年はじめ、斉趙の旅から洛陽に戻る。 世話になっていた洛陽の「おば」が亡くなる。
742  31歳
五言律詩 畫鷹(素練風霜起) 見事に詩と鷹を描いている。
・李白、会稽より長安に来たる。   ・安禄山、平鹿節度使となる。

   五言律詩  過宋員外之問舊莊  河南省偃師県首陽山の下の荘
〃31歳
   五言律詩 夜宴左氏荘(風林繊月落)
正月、年を改めて載となす。賀知章、長安を去り、没。岑參、進士及第。李白、翰林院に出仕す。三月、安禄山、抱陽節度使を兼ぬ。寿王妃楊氏、大兵と号して宮中に召さる。李白、金を賜わりて長安を追わる。



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 2. 長安での仕官活動10年

744 33歳

  五言古詩 「遣懐(昔我遊宋中)」  「宋中」(宋州)で遊んだことを詠います。

 7五言律排 贈李白(二年客東都)・ 此詩、時に李白朝廷を辭して梁宋に向かおうと洛陽を通りかかり杜甫と遭遇、杜甫は喪が明けて再会を約束、送別のときこの詩を贈る

 〃


 〃五言律詩  重題鄭氏東亭

・  新安に在る鄭氏の東亨に、再びかきつけた詩。天宝三載作者が洛陽にあったころの作であろうという。


 〃

五言古詩 「昔遊(昔者与高李)」

・  三人は秋の終わりから冬のはじめにかけて、孟諸沢で狩りの遊びをします。

745  34歳 五言律詩  陪李北海宴歴下草時邑人賽庭土輩在坐

・   北海太守李畠のお相伴をして歴下の事に宴したことをのぺる。天宝四載の作であろうという。


五言律詩  同李太守登歴下古城員外新亭   李之芳が造った歴下の古城の新字にのぼって李邑が詩を作った。此の詩はそれに和したものである

 〃

五言律詩 鄭附馬宅宴洞中

  鮒馬都尉鄭潜曜の宅にて、洞穴の中で宴したことをのべる。

 〃

五言絶句 冬日有懐李白

 冬の日に李白をおもって作った詩である。これは天宝4載の冬作者が己に長安に帰って後の作、李白は時に江南に在った。翌年の春、李白にあてて書く。

八月、大兵を貴妃となし、その三姉、第宅を賜わる。この年、李白、山東に在り、冬、江東に去る。
746  35歳五言律詩 春日憶李白(白也詩無敵)

・  李白と別れて長安に上った直後の春、江南にいる李白に送った。

 〃

 七言歌行 送公巣父謝病帰遊江東、兼呈李白

  孔巣父が病気に託して官をやめてかえり、これから江南の方へでかけるのを送り、同時に李白におくるために此の詩を作った。蓋し天宝五載春、作者が己に長安にかえって以後の作。

 〃

五言古詩 贈特進汝陽王二十韻   特進の位にある汝陽王李礎に贈った詩である。天宝五載ごろの作であろう。

 〃

七言歌行 飲中八仙歌

 〃七言絶句 贈李白(秋来相顧尚飄蓬)  二度の秋を一緒に過ごした李白と別れます。父から長安に来るよう指示。

747  36歳 五言古詩 今夕行(自齊趙西歸至咸陽作)

〃 五言律詩 故武衛将軍挽詞三首

  死んだ武衛将軍のためにつくった喪の歌辞。天宝六、七載頃長安での作であろうという


 五言古詩 奉贈韋左丞丈二十二韻

  沢山の詩を奉贈するが、李林甫が権力を握っていたので、尚書左丞韋済も手の施しようがなかった
 ◎ 天下に詔して、一芸に通ずるものを長安に集めて試験す。李林甫、文学の士を嫌い、みなこれを落とす。正月、李?殺さる。十月、温泉宮を改めて華清宮となし、その規模を拡大す。李林甫、権威を嵩に獄死者多数。
748  37歳
五言古詩 奉寄河南韋尹丈人

・  河南の尹である韋済どのに寄せ奉った詩。天宝七載長安に在っての作。

749  38歳
七言歌行 高都護総馬行(高仙芝開元末為安西副都護) 安西都護高仙芝の騎る駿馬の歌。天宝八載長安での作
751  40歳
七言歌行 兵車行(車鈴凛、馬蕭蕭)。 リアリズムに徹した詩作に没入していく.
五言古詩 樂遊園歌  長史賀蘭場という人の定席に於ける酔時の歌である。作者は天宝九載に賦を献じたが、未だ用いられなかったときの作、蓋し天宝十載正月晦日の作であろう。
 〃 

五言古詩 同諸公登慈恩寺塔(高標跨蒼天)

秋、詩人の岑参、高適、儲光羲らと慈恩寺の塔に登る
752  41歳

七言歌行 貧交行(翻手作雲覆手雨) 貧賎であったときには交りがあったものが富貴となってのちはその交りを棄てて省みないこと嘆いて作った詩。作者は賦を献じて後久しく長安に寓居していたが、その旧友で彼を念うもののなかったために此の作を作った。

753  42歳

七言歌行 麗人行(三月三日天気新)
  楊貴妃の親族の宴を題材にし、楊国忠の横暴と危険に触れるもの。
 〃

五言律詩 寄高三十五書記
  友人高適が哥舒翰の幕下にあったのに寄せた詩である。製作時は未詳、天宝十二載以後であろう。
 〃


 〃  
七言律詩 秋雨嘆三首
   秋、六十日間雨が降り続き、前年の水飢饉で、都の食糧不足に陥った。
755  44歳
五言律詩 官定後戯贈(不作河西尉)
  河西の尉という空名の任官を免ぜられて太子右衛率府兵曹参軍事に任ぜられることにきまったあとで戯に自分自身に贈った詩である。

 
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3.仕官叶うと安禄山の乱

756  45歳  五言律詩 月夜(今夜鹿州月)
 ・  連行されて間もない晩秋の作。羌村に残してきた家族を想う詩。
 〃 七言歌行 哀王孫(哀いかな王孫)
・  安禄山の乱に或る皇族が零落して民間に潜んでおるのを見てあわれにおもって作った詩である。至徳元載(即ち天宝十五載)の九月頃の作。

〃11月  五言律詩 対雪(戦哭多新鬼)   雪に対して感を述べる。製作時は至徳元載の冬の作。此の年の十月には房?が陳陶斜に敗軍したことは「悲陳陶」詩に見えるが如くである。
至徳二載 757 46歳  五言律詩 得舍弟消息二首(舎弟の消息を得たり 二首)
・  我が家の弟の便りを得たときに作る。何処にあって作ったかは明かでない。張遠は弟は東京に、作者は西京にあったという。
 〃 五言律詩  雨過蘇端(端置酒)
 〃 五言律詩 春望(國破山河在)    春 亡国の悲哀詠う。 
 〃  七言歌行 哀江頭(少陵野老呑聲哭)  こっそりと行った曲江の畔に佇みながら、玄宗と楊貴妃の遊宴の華やかであったころを回想。楊貴妃の豪奢に批判し、一方では皇帝が追い詰められて愛妃に死を与える悲劇的なこと詠。城外の北の官軍に首都奪回の期待を寄せる。
 〃  五言律詩 自京竄至鳳翔達連行在所 三首 
・  京より竄れて鳳翔至り 行在所に達することを喜ぶ 三首脱出の詩。
 〃 五言律詩 
・  鳳翔にあって月をみてよんだ。蓋し至徳二載七月の作。
 〃 五言古詩 得家書(家書を得たり)
・   前の「述懐」の詩に見える如く、作者より安否問いあわせの手紙を出したのち、家族の方より返事を得て作った詩である。時に作者は鳳翔に在った。製作時は至徳二載の秋七月。杜甫のこの頃の本音がうかがえる。
 〃 五言古詩 羌村三首
・ 
 黄土高原の雄大な夕刻に到着。門のあたりで小鳥が騒ぎ、帰ってきたことを知らせ、迎えた家族の喜びや近所の人のようすまでが、時間の経過を追っていきいきと描かれる。
758 47歳 五言古詩 北征(皇帝二載秋)
・   五言百四十句の長篇古詩。 至徳二載六月一日、鹿州に帰ることを許された。作者が此の旅行をした所以である。製作時は至徳二載九月頃か。八月初めに鳳翔より出発して鹿州に到著して以後に作ったもの。

 〃 七言律詩 曲江二首 其二(朝回日日典春衣)
・   七言律詩の秀作。「人生七十 古来稀なり」が、生まれた。

 〃 五言律詩 奉贈王中允維(王中允経に贈り奉る)
・  太子中允である王維に贈った詩。乾元元年の作であろう。

 〃五言律詩 得舎弟消息(乱後誰帰得)
・   弟、無事。留守の娘もいなく犬だけが残されていた。
 〃 五言律詩 至コ二載,甫自京金光門出間道歸鳳翔。
       乾元初,從左拾遺移華州掾,與親故別,因出此門,*****

  ・ 左遷される杜甫の無念さを感じる。(左遷よりひどい扱いだった?)

 〃七言律詩 早秋苦熱堆安相仍(七月六日苦炎蒸)
  ・ 厳武、六月に巴州刺史に左遷。杜甫も中央清官から地方属官に左遷、失望大。
  七言律詩 題鄭牌亭子         -----  *****
   ・ 華州の鄭県にある亭にかきつけた詩、実はそこにある竹に題した詩である。作者が華州へ赴任時の作。

 〃 七言律詩 九日藍田崔氏荘(老去悲愁強自寛)
  ・ 重陽節に、崔氏の藍田の別荘に招かれる。

 〃 五言律詩 立秋後題(日月不相饒)  詩は職を辞して華州を離れる直前に作。

 〃 五言古詩 石壕吏 (三吏三別)
  ・石壕の村で役人が河陽へゆくべき人夫を徴発するとき、こどもを二人まで戦死させた老婦人が乳のみの愛孫を家にのこし、その夫の老翁に代って出かけることをのべた詩。

 〃 五言古詩 新安吏 (三吏三別)
  ・乾元元年冬末、華州をはなれて洛陽に至り、二年に洛陽より華州にかえるとき、途上において新安の吏と問答して此の詩を作る。此の詩より「無家別」に至る三吏・三別六篇は「垂老別」を除いて同時の作である。

759 48歳 五言古詩 新婚別(兎糸附蓬麻) 
  ・ 「三吏三別」 のうち「新婚別」は三別の代表作。
 五言古詩 無家別 (三吏三別)妻子も親もいない孤独な男が他方へ征役に出されようとして,その家に別れ去る心を述べた詩。華州での作。
 五言古詩 潼関吏 (三吏三別-6)官軍は相州を囲んで敗れたために、淫関を修理して賊の人造を防ごうとした。作者はたまたまその防禦築城の場所をすぎ、役人と問答してこの詩を作った。
 五言古詩 垂老別  「三吏三別-3」「垂老別」は華州途上の作ではなく、後人が類をもってこれをここに置いたものとみるべきである。乾元2年の秋 759年 48歳 秦州で同谷へ旅立つ前の作。


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4 官を辞して戦乱を避けて紀行










759
48歳

華州司功参軍事として任官中は、杜甫の社会詩の最大傑作とされる「三吏三別」の6作品を作ったが、そのなかで政府のやり方を批判する発言があるということで、華州司功参軍事の官を免ぜられてしまった。
 そののち、杜甫は、職を捨て妻子を連れて、放浪の詩人としての長期の旅に出る。
秦州から同谷をへて、48歳の12月に成都(四川省)にたどりつき、翌49歳のとき、成都の浣花渓(かんかけい)のほとりに草堂をつくり、54歳まで成都に滞在することになる。ここから杜甫の詩に画期的な変化が生じる。芸術性が高まってくるのである。
 (秦州の詩)
 五言律詩 秦州雑詩二十首 其一(満目悲生事)  1〜10
 五言古詩 夢李白二首1・2 其一(死別已呑声)
 五言律詩 月夜憶舎弟(戍鼓断人行) 仲秋八月、白露節頃、作品。弟たちの安否を気づかう。
 五言律詩 天末懷李白  李白を思い(暗に朝廷批判)
 日暮 胡の種族、軍隊を批評する
 五言律詩 空嚢(翠柏苦猶食)  財布が空っぽ。
 五言古詩 秦州見敕,薛三?授司議郎,畢四曜除監察,與二子有故,遠喜遷官,兼述索居,凡三十韻
  ・ 作者が秦州にあって任官の目次を見たところが、薛拠は司議郎を授けられ、畢曜は監察御史に除せられたことを知った。しかしこの二人は作者と旧交のあるものであったので遠方ながら彼らが転任したことを喜び、また兼ねて自己がさびしい生活をなしていることを詠う。  この詩は朝廷からのお召を諦め、紀行に出ることを決した。
 五言律詩 寄李十二白二十韻
 五言律詩 別贊上人

同谷紀行十二首( 1)五言古詩  發秦州
同谷紀行十二首( 7)五言古詩  青陽峡
同谷紀行十二首(12)五言古詩 7鳳凰台
       
759年48歳五言古詩 乾元中寓居同谷県作歌七首 


759年48歳五言古詩 萬丈潭 同谷県にある万丈潭にあそんで竜のことに感じて作る。竜は暗に自己を此したものである。* 〔原注〕 同谷願作。(同谷県の作)乾元2年11月759年 48歳
成都紀行十二首 (1)五言古詩 發同穀縣
成都紀行十二首 (5)五言古詩 飛仙閣
成都紀行十二首 (7)五言古詩 龍門閣(清江下龍門)


 



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5.成都 浣花渓草堂

760
49歳
■ 成都 浣花渓草堂
この時期が、杜甫にとって最も平穏な時期
かつての友人の巌武(げんぶ)や、高適(こうせき)が交替に、この地域の高官として着任し、杜甫の生活を見てやったりもした。


 七言律詩 卜居(浣花渓水水西頭)  裴冕の世話で、成都から4km離れた閑静な田園地帯に草堂を建。
 五言律詩 成堂
 七言律詩 蜀相(丞相祠堂何処尋)杜甫は身辺が落ち着くとさっそく、かねて尊敬する孔明の祠堂を訪ねました。
 五言律詩 梅雨 草堂のつゆのさまをのぺる、上元元年四月の作
 五言律詩 為農  農民となって住むことを述べる、五言律詩。上元元年春の末の作。
 五言律詩 賓客(患気経時久)

 七言律詩 客 至(舎南舎北皆春水)  草堂二年目の春を詠う。崔明府がたずねてくれたことを喜んで作った詩。
 五言律詩 春夜喜雨 761年春の夜雨が降るのを喜ぶ
 七言絶句 春水生 二絶   春 水  春の出水のことをのべた。
 五言律詩 江 亭(坦腹江亭暖)

 七言律詩 聞官軍收河南河北 官軍が河北・河南の地方を賊軍の手からとりこんだというしらせを聞いてよんだ詩。広徳元年春、梓州にあっての作。
 五言古詩  不見  久しく李白を見ないのでその身のうえをおもって作る。上元二年の作。
 五言律詩  草堂即事  浣花の草堂にあっておりにふれてよんだ詩。上元二年十一月の作。
 七言歌行 観打魚歌  綿州の?江の東津で魴魚の網打ちを観てつくったうた。宝応元年綿州にあっての作。
 七言律詩 登 楼(花近高楼傷客心)  春三月、一年三か月振りに浣花渓の草堂。途中、戻っていましたが、事実上1年9ヶ月。
 五言律詩 倦夜  だるい夜のねむられぬおりの景情をのべた詩。広徳二年秋、草堂にあっての作。



 



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6.菱州寓居生活


剣南東川節度使の巌武の推挙により節度参謀・工部員外郎となったが、それも永くはつづかず、翌年54歳の正月には官を辞して浣花草堂(かんかそうどう)にもどった。
そしてこの年の正月に高適が、4月には巌武が相ついで亡くなるとともに、杜甫は成都の生活に見きりをつけて、家族ともども再び旅に出た。
こんどの旅は、長江を利用しての水上の旅であったが、健康をむしばまれつつあった杜甫は、しばしば水上から陸地に上陸して、病気療養にあたらざるをえなかった。
765
54歳
永泰元年765年54歳
五言律詩 去蜀  夏五月、一家草堂を去り、錦江の渡津万里橋の袂から船出。
五言律詩 宿青溪驛奉懷張員外十五兄之緒  青渓駅というところにとまったとき、張之緒をおもって彼によせた詩。永泰元年夏、杜甫がすでに成都を離れて江を下り嘉州にあったときの作。
五言律詩 題忠州龍興寺所居院壁  息州の竜興寺の寓居のおくざしきの壁にかきつけた詩。永泰元年忠州にあっての作。

五言律詩 旅夜書懐(細草微風岸)  詩は渝州から忠州(四川省忠県)に至る船中の作。
五言律詩 長江二首 第一首は長江のながれの東海に帰することを説き、盗賊の其の義を知らぬことをいい、自己の帰心の翻浪に似ていることをのべて結びとした。永泰元年雲安にあっての作。

五言律詩 懷錦水居止 二首  錦江のほとりの住居のことをおもってよんだ詩。永泰元年雲安にあっての作。
七言律詩 十二月一日 三首  永泰元年冬、雲安にあっての作。
五言律詩 放船(収帆下急水)
766
55歳
大暦元年766年55歳
七言律詩 雲安九日鄭十八携酒陪諸公宴(寒花開已尽)  雲安、着。重陽節前。
五言律詩 遣 憤(聞道花門将)  宦官が禁衛軍を統率など、言語道断。

五言律詩 王兵馬使二角鷹
七言歌行 寄岑嘉州(州據蜀江外) 嘉州の刺史であり親友である苓参に寄せた詩。大暦元年春、雲安にあっての作。* 〔原注〕 州拠蜀江外(州は蜀江の外に拠る)

五言律詩 移居菱州作(伏枕雲安県) 春になると、風痺も回復してきたので、杜甫は菱州(きしゅう:四川省奉節県の東)に移る。
七言絶句 漫 成(江月去人只数尺) 夏から秋への四か月間の旅は、杜甫の健康を害す。風痺(ふうひ:関節炎)が悪化、歩行もままならない状態。
五言古詩 客 堂(憶昨離少城) 菱州に着くと、山の麓に仮小屋を作って仮寓した
五言古詩 暫往白帝複還東屯

五言排律 上白帝城二首  これもまた白帝城にのぼってよんだ詩である。ここにはその第一首をとる。この第一首は時事に感じたことをのべる。大暦元年春の作。

五言律詩 白帝城樓 杜甫  五言律詩
七言律詩 白帝城最高楼(城尖径仄旌旆愁) 杖をついて白帝城の最高楼まで登り、ここでも国家の現状を慨歎している。
五言絶句 武侯廟(廟在白帝西郊)  菱州の諸葛亮の廟をたずねてよんだ詩。大暦元年菱州にあっての作
五言絶句 八陣圖  諸葛孔明の造ったと称せられる八陣図について感をのべる。大磨元年の作。

五言律詩 諸葛廟
五言律詩 艶預堆  艶預堆の石のことをよんだ詩。大暦元年の作。
七言律詩 艶預  
五言律詩 老病  菱州にあって老い且つ病んだことをよんだ詩。大暦元年春晩の作。

七言絶句 菱州歌 十絶句 菱州の風土についてのべている。夏の作。
五言古詩 牽牛織女  牽牛星と織女星との事に感じてよんだ詩。大暦元年七月菱州にあっての作。
五言古詩 雨 二首  雨のことをよむ。大暦元年菱州にあっての作。
五言律詩 江上 杜甫  江上の宅にあっての感をのべる、闇にあっての作。江上は起句の二字を切りとって用いたもの。大暦元年菱州西閣にあっての作。
七言律詩 返 照(楚王宮北正黄昏)  夕日のてりかえしのおりに感じたことをのぺる。大暦元年菱州西閣にあっての作。  

七言律詩 黄  草  成都の乱と松州の囲まれたこととをきいてよんだ詩。題は詩句の首二字を切り取って用いる。大暦元年秋の作。
五言古詩 謁先主廟(劉昭烈廟在奉節縣東六裏)菱州の先主廟に謁したことをよんだ詩。大暦元年秋の作。


七言律詩 諸將 五首 杜甫  将軍らの事について感をのべる。事は詩中に見える。広徳元年から大暦元年秋の作で諸将として大暦元年秋に集約。
五言古詩 八哀詩 (1) 贈司空王公思禮
五言古詩 八哀詩 (2) 故司徒李公光弼  李公輔をかなしんでよんだ詩。
五言古詩 八哀詩 (3) 贈左僕射鄭國公嚴公武  死後に左僕射を贈られた鄭国公厳武をいたんだ詩。
五言古詩 八哀詩 (4) 贈太子太師汝陽郡王進  汝陽王李進を哀しんでよんだ詩。
五言古詩 八哀詩 (5) 贈秘書監江夏李公邑  李邑を哀しんだ詩。
五言古詩 八哀詩 (6) 故秘書少監武功蘇明 公源 秘書少監蘇源明を哀しんだ詩。
五言古詩 八哀詩 (7) 故著作郎貶台州司戸栄陽鄭公虔  鄭虔を哀しんでよんだ詩。
五言古詩 八哀詩 (8) 故右僕射相國張公九齡  張九齢を哀しんでよんだ詩。

五言律詩 中宵  よいの口の感をのべた詩。大暦元年?州にあっての作。
七言律詩 (一作秋夜客舍) 初句(露下天高秋気清) 厳武の部下の柏茂琳は?西に西閣という住居を与え、菱州で療養するように勧める。
五言律詩 宿江邊閣(即後西閣) 江のほとりにある草閣にとまったことをのべた詩。大暦元年菱州にあっての作。

七言律詩 吹笛  杜甫101 吹 笛 詩の句首の二字を切りとって題とする。笛声のあわれなのをきいてよんだ詩。大暦元年菱州の作。初句(吹笛秋山風月清)
五言排律 西閣 二首 西閣にあっての作。
五言律詩   月を見て感をのべる、梁権道は編して大暦二年の作とするが、仇氏は大暦元年西閣にあっての作としている。
五言律詩 第五弟豐獨在江左,近三四載寂無消息,覓使寄此 二首 五番めの弟の豊だけ独り江左(江東、江南)にいるがこの近くの三四年はさっぱり消息がない。それで使者をもとめて此の詩を寄せてやる。大暦元年の作。



七言律詩 秋興 八首 其一(玉露凋傷楓樹林)
七言律詩 詠懐古蹟五首  古跡において自己の懐う所を詠じた詩。五首ある。大暦元年?州に在ったおり各古跡をおとずれることなく予想して作ったもの
七言歌行 寄韓諫議 諫議大夫韓注に寄せた詩。大暦元年の作であろうか。
七言絶句 解悶 十二首  悶えを解くために作った詩。ここにはその第二首、第三首、第六首、第八首、第九首をとる。其の事がらは第によやて同じくないゆえ、各篇をみて知られたい。詩中の「一たび故国を辞して十たび秋を経」 の句によれば大暦元年菱州にあっての作。至徳二載官を辞して大暦元年までは十年である。
五言律詩 洞房 この篇「洞房」以下の宿昔、能画、闘鶏、歴歴、洛陽(本書にはとらぬ)、梶山、提封、通じて八篇は同時の作と思われるもので、いずれも長安の往事を追想したものである。
 
五言律詩 鸚鵡(一作翦羽) この篇は鸚鵡に托して自己の離郷の感をのぺている。この「鸚鵡」以下孤雁、鴎、猿、廃、鶏、黄魚、白小、通じて八首はみな禽鳥獣魚を詠じ、物に托して自己の意を寓している。大暦元年菱州にあっての作であろう。
五言律詩 孤雁(一作後飛雁) この第は孤雁に托して兄弟の群を思う詩である。

五言律詩 黄魚
五言律詩 
五言古詩 偶題 偶然にかきつけた詩。文章の沿革より自己の詩学に及び、この詩を賦すわけを叙している。

五言律詩 峽口二首 瞿塘峡口について感を叙する、大暦元年?州にあっての作。

五言律詩 瞿塘兩崖 瞿塘峡の崖門の険峻なことをのべている。大暦元年冬、菱州での作。

七言律詩 閣 夜(歳暮陰陽催短景)  柏茂琳の客分として?西の西閣に住み、時々都督府で文章の草槁作成、書簡の代筆をする。

七言歌行 小至  冬至の後二日めの景事と所感とをのべる。大暦元年冬、菱州での作。

広徳2年764年53歳

七言歌行 立 春(春日春盤細生菜)  立春の日に菜盤をみて感ずる所をのべる。大暦二年立春、?州にあっての作。 
七言歌行 愁(強戲為?體)  愁いのこころをよんだ。戯れに呉体を用いてつくった。大暦二年春の作であろう。*〔原注〕 強戯烏呉鰹(強いて戯れに呉体を為す)
七言歌行 即事(一作天畔)  おりにふれてよんだ詩、大暦二年春のくれの作。
五言律詩 入宅三首(大?二年春,甫自西閣遷赤甲) 西闇の住所から赤甲山のそばへ居を移してそこの宅に入ったことをのべた詩。大磨二年春の作
五言律詩 暮春題?西新賃草屋 五首 春のくれに凄西であらたに借りいれた草屋に題した詩。
五言律詩 示熟食日宗文宗武(消渇遊江漢)

七言歌行 七月一日題終明府水樓二首 七月一日に奉節県のかりの県令終某の水辺の楼閣に遊んでそこに書きつけた詩。大暦二年の作
五言古詩 行官張望補稻畦水歸  田地係りの張望が稲田の畦の水を補って東屯からかえって報告したことをよんだ詩。大暦二年 壤西にあっての作。

五言古詩 諸葛廟  ?州にある諸葛孔明の廟にまいったことをよんだ詩。大暦二年の作か。
五言律詩 秋野 五首 秋の田野についてのべた詩。大暦二年秋の作。 767年 56歳
五言律詩 課小竪鋤折合北果林枝蔓荒磯浄託移牀 三首
五言律詩 返照  夕ばえのてりかえしのさまをのべた詩。大暦二年秋の作。
五言律詩 向夕  夕にむかうさまを叙する。大暦二年冬の作。この篇の後になお秋の詩があるが、編纂の際に入れかわったものであろう。
五言絶句 複愁 十二首  ふたたび愁えたことをのべた詩。
107 復愁十二首(万国尚戎馬)生まれ故郷の鞏県(きょうけん)を訪ねたときのこと。秋、五言絶句の連作
五言律詩 社日兩篇  秋の社日にあったことをのべた詩。大暦元年の作か二年の作か詳らかでない。
五言律詩 八月十五夜月 二首  八月十五夜の月をよんだ詩、大暦二年の作であろう。
五言律詩 十六夜翫月   十六夜に月色をもてあそんだことをよんだ詩。前篇の十五夜、この篇の十六夜、次篇の十七夜の月の詩は皆順次にその夜の作であろう。「杜臆」には三篇とも?西の作とする。
五言律詩 十七夜對月  十七夜に月にうちむかいながめたことをのべる。
五言律詩 曉望  あかつきのながめをよんだ詩。黄鶴は大暦二年東屯にあっての作とする。大暦2年 767年 56歳
五言律詩 日暮  112 日の暮れたときのことをよんだ詩。黄鶴は大暦二年?西にあっての作とする。壤西の作
五言律詩 夜  夜の感をのべる。

七言律詩 九日 五首 登高  九月九日陰暦重陽のことをのぺる。この題には五首とあるが四首しかない。趙次公は「登高」の詩を加えて五首とする。或はもと五首であったのを後人が「登高」を別にしたものか。大暦二年の作。
七言律詩 登 高(風急天高猿嘯哀) ?州の作
五言律詩 暫往白帝複還東屯  しばらく白帝城の方へいっていたがまた東屯の万へかえったことをよんだ詩。大暦二年秋の作。

五言古詩 寫懷 二首  自己のむねのうちを写しのべた詩。大暦二年冬の作。ここにはその第一首をとる。

七言歌行 舍弟觀赴藍田取妻子到江陵,喜寄 三首  弟の観が藍田県へいって妻を要って江陵へ到着したということだ、それで喜んで寄せた詩。大暦二年冬の作
七言律詩 夜歸  暗夜に家にもどったときのことをよんだ詩。大暦二年
七言歌行 後苦寒行 二首  前に「苦寒行」(本書にはとらぬ)があり、それに対して「後」という。大暦二年冬の作。

五言律詩 白 露211 白 露(白露団甘子) 初秋、白露節
七言歌行 負薪行(?州処女髪半華)
七言律詩 又呈呉郎(堂前撲棗任西隣) 東屯の作
五言律詩 宗武生日(小子何時見)

七言律詩 冬 至 (年至日長為客)  ?州の東郊、赤甲山 の作

 


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 7.南国漂泊
768
57歳
57歳の正月   768年
 五言歌行 人日兩篇 其一  ・七言歌行 人日兩篇 其二
 五言律詩 移居公安山館  江陵から公安の駅館へ居処をうつしたときの詩。山館(一作移居公安山館,編入江陵詩後)
 七言絶句 書堂飲既,夜複邀李尚書下馬,月下賦絶句   江陵に着く。二月末、雨の降る日。
 五言古詩 秋日荊南述懐三十韻  この詩は、朝廷批判のまとめのようなものです。

 菱州を離れ、また長江を下って洞庭湖に向かい、さらに南下して長沙(湖南省)に向かおうとしたが途中で洪水にあい、あきらめて北上する途中、潭州と岳州(ともに湖南省)のあいだの水上で、家族に見とられつつ59歳の寿命を終えたのであった。
 杜甫は江陵から北へ、都長安もしくは東都洛陽をめざすこともできたはずです。しかし、
 @杜甫には帰郷に必要な資金もなかったでしょう。
 A北の商州(陝西省商県)では兵馬使劉洽(りゅうこう)が防禦使殷仲卿(いんちゅうけい)を殺して叛乱を起こしていました。北への道は兵乱で塞がれていた。
 杜甫は長江を東へ下るほかありません。

 「江漢」この詩は大暦四年(769)の秋、潭州(湖南省長沙市)で作られたとする説もありますが、題名の「江漢」からすると、大暦三年(768)の秋、長江を下っている途中の作とするのが妥当のようです。頚聯の「落日 心は猶お壮んに 秋風 病は蘇えらんと欲す」の句も、未知の地に向かう杜甫が自分自身を励ましている句と考えられます。
これからの行く手についての考えを述べています。いろいろな故事を用いて行く先を修飾していますが、本当はあてのない旅であったので、飾る必要があったのでしょう。
舟出江陵南浦 奉寄鄭少尹審
 「衡陽」(湖南省衡陽県)は洞庭湖の南にあり、雁はここまで渡南して北へ引き返すと信じられていました。「南征 懸榻を問わむ」の句は故事を踏まえており、?陽湖の南の洪州(江西省南昌市)に行くことです。
泊岳陽城下
 長江を下る途中、杜甫は公安(湖北省公安県)に上陸して、県尉の顔(がん)氏と長安時代の友人で書家の顧戒奢(こかいしゃ)の世話になりました。しかし、ほどなく顧戒奢は江西に赴任することになり、杜甫は公安に二か月あまり滞在して、冬も深まった年末に岳州(湖南省岳陽市)に着きました。
 この詩をみると、杜甫はとても元気なようです。詩文は湧くように生まれてくる。困難に遭っても意気はますます盛んであると詠っています。
 杜甫は最終的には故郷の洛陽に帰る気持ちがあったと思われます。しかし、詩では「図南 未だ料る可からず」と南下の意思を示しています。岳陽は北と南の分岐点で、洛陽に行くには長江をさらに180kmほど東北に下って漢陽(湖北省武漢市)から漢水にはいって遡行しなければなりません。ところが杜甫は、世の中には何があるかわからないと、『荘子』の説話を引いて南に向かおうとしているのです。
登岳陽楼
 岳州の渡津に舟をつけると、杜甫はすぐに岳陽楼に上ったようです。岳陽城は洞庭湖の湖口東岸にあって、岳陽楼は城壁の西門上に聳える三層楼でした。西南の眼下に洞庭湖を見渡すことができます。

宿白沙駅
杜甫の一家は岳陽で年を越し、翌大暦四年(769)の正月、洞庭湖を南へ下って潭州(湖南省長沙市)に向かいました。北の故郷ではなく、南の瀟湘の地へ向かった理由については、いろいろな説がありますが、乱後の北へ帰っても生活できないというのが隠された理由だったのではないでしょうか。
 当時の洞庭湖は現在の六倍もの広さがあり、湖の南岸は現在よりも50kmほど南へ拡がっていたとみられています。洞庭湖の東南隅に青草湖と称する一角があり、白沙駅という宿駅がありました。杜甫は日暮れになって白沙駅の渡津に舟をつなぎました。
清明 二首 其の一
 白沙駅を出ると、舟はすぐに湘水に入ります。潭州(湖南省長沙市)は湘水の河口に近い城市といってよく、陰暦三月のはじめ、清明節のころには潭州に着いていました。
 清明節は同時に寒食明けでもあり、新しく火を起こして食事をつくり、墓参りや野遊びをします。陽暦では四月五日か六日にあたりますので、気候のよい季節です。子供が竹馬に乗るのも踏青(野遊び)の一種ですが、杜甫は故郷にいませんので墓参りはできません。土地に住む異族の子供の民族衣装や楚女の細い腰が杜甫の目にとまります。
清明 二首 其の二
清明節になったが、杜甫は金銭に窮し、貧しい食事しかできないといい、富貴も隠棲も人の考え方次第だが、自分は濁り酒に粗末な飯でがまんをしていると強がりを言っているのか、嘆いているのか、判断に迷うような詠いぶりです
 清明節の日の詩というのに、其の二の詩はあまりにも悲痛で家族にも見せられなかったであろうと思われます。「右臂は偏枯し 半耳は聾す」と杜甫は体の不調を記録しています。そして、岸に繋いだ舟のなかで涙を流すのです。「悠悠たる伏枕 左書空し」は『詩経』関雎(かんしょ)の詩を踏まえており、輾転反側して悩み夜も眠れないほどであり、字も上手に書けないという意味でしょう。
 蜀に流亡してからすでに十年がたち、洞庭湖の湖畔にあって季節は変わりなく移っていきます。長安の都も蜀の山河も、いまは遠いものになってしまいました。杜甫はそうしたことを思いながら、浮き草の花の白さに打ちのめされると、漂泊の人生を嘆くのです。人々が楽しむ清明節は、哀しみの言葉でむすばれます。
 「清明二首」のうち其の二の詩は、杜甫の苦悩が生々しく描かれています。佳作です。


朱鳳行
 杜甫の当面の目的地は、潭州から湘水をさらに150kmほど南へ遡った衡州(湖南省衡陽市)でした。知己の韋之晋(いししん)が衡州刺史をしていたので、それに頼るつもりであったようです。その途中の湘水西岸に高さ1290mの南岳衡山があり、南北400kmにわたる連山となって横たわっていました。
 詩題の「朱鳳」は衡山に棲むという朱色の鳳凰のことで、南は赤、神獣は朱雀(すじゃく)であることにちなんだ伝説の鳥です。杜甫は三句目以下で、自分を「朱鳳」に例えています。
閣臥病走筆寄呈崔・盧両侍御」 769年 58歳 夏〜秋
杜甫が潭州に着いたときは、頼りにしていた韋之晋が四月に急死したあとでした。不運としか言いようがありません。頼る者をなくした杜甫は、それから翌年の大暦五年(770)四月まで、舟中や江辺の楼を宿所としながら、市場で薬草を売ったり、州府の知己の好意にすがったりしながら糊口をしのいでいたようです。
 この一年にわたる潭州滞在は北へもどるのに充分な時間の余裕であると思われますが、杜甫はなぜかあてもなく潭州にとどまっています。病気のせいもあったかもしれませんが、帰るに帰れない経済的な窮状におちいっていたと見るべきでしょう。.
 詩は58歳、夏の終わりか秋のはじめに、崔渙(さいかん)と盧十四(ろじゅうし:十四は排行)に食べ物と酒をねだったものです。崔氏と盧氏は旧知の元侍御で、このとき潭州に左遷されて来ていたものと思われます。この詩は杜甫一家が食事にも事欠くような窮状におちいっていたことを示しています。

小寒食船中作
 困難な生活のうちに一年が過ぎ、杜甫は五十九歳の春を迎えました。その春、舅父(きゅうふ:母方のおじ)の崔偉(さいい)が?州(ちんしゅう:湖南省?州市)の録事参軍(刺史代理)になって赴任する途中、潭州を通過しました。杜甫は久しぶりに親族の「おじ」と会い、四方山話をした。上流の任地へ赴く「おじ」を見送ってから、杜甫は潭州で迎える二度目の寒食節を過ごします。詩題の「小寒食」は寒食節の三日目、最後の寒食日のことです。

清  明
 小寒食の翌日は清明節です。大暦五年(770)の清明節は旧暦三月三日で、上巳節と重なっていました。後半で出てきますが、このことによって杜甫はこの時まで潭州にいたことの証明になります。
 清明節の日には野外で遊ぶ習わしであり、人出があります。杜甫も人ごみに混じって郊外に出かけたようです。潭州の湘水西岸には岳麓山があり、山中には岳麓寺と道林寺の二寺がありました。寺の境内は遊宴に適しており、潭州駐屯の武将たちが宴会をひらいていました。夕刻になったので、杜甫は山を下りて帰途につきます。



 七言絶句 「江南逢李亀年
 潭州で過ごしていた晩春のころ、杜甫は湖南採訪使の宴席で旧知の李亀年(りき
ねん)と偶然に出会いました。李亀年は玄宗の宮廷で著名な宮廷歌手でした。その
有名人が江南の果てともいうべき潭州に流れてきているとは、杜甫の予想もしないこと
でした。
 杜甫は四十五年前、まだ十五歳のときに洛陽の岐王李範(りはん)や秘書監崔滌
(さいでき)の屋敷で李亀年の歌を聞いています。杜甫は平和で希望に満ちていた昔
のことを回顧しながら、「落花の時節 又君に逢う」と流離の人生の悲哀を詠います。
 七言律詩 燕子來舟中作 杜甫 燕子が舟のなかへ来たのをみてよんだ詩。大
暦五年春、潭州にあっての作。
 五言律詩 江閣對雨有懷行營裴二端公(裴?與討臧?故有行營)杜甫  湘江
のほとりの闇で雨にうちむかって陣中の裴君(道州刺史裴?)をおもった詩。大暦五年
夏、衡州にあっての作。
 五言古詩 題衡山縣文宣王廟新學堂、呈陸宰 杜甫  衡山県の文宣王廟
(孔子廟)の新築の学校に題し、かねて県令の陸某に呈した詩。大暦五年夏、衡州
へ向かう途中の作であろう。
 五言律詩 舟泛洞庭(一作過洞庭湖) 杜甫  洞庭湖をすぎたことをよんだ詩。
大暦五年夏、北帰の途に就いたころ、自沙駅青草湖のあたりにあってよんだものか。
この篇はわかりにくいふしが多い、贋作ではないかと思われる
 五言古詩 「 聶耒陽以僕阻水書致酒肉   療饑荒江詩得代懐興尽本
   韻至県呈聶令陸路去方田

          駅四十里舟行一日時属江   漲泊於方田
 李亀年と会って間もない夏四月、長沙で兵乱が発生しました。湖南兵馬使の臧?
(ぞうかい)が潭州刺史崔?(さいかん)を殺して叛乱を起こしたのです。杜甫は乱を避け
て北へ行ってもよかったかも知れないと思うのですが、向かった先は南で、衡州に避難
しました。 衡州に着いた杜甫は、さらに湘水支流の耒水(らいすい)を遡って?州(湖南
省?県)に行こうとしました。?州(ちんしゅう)で録事参軍をしている舅父の崔偉(さいい)を
頼ろうと思ったのでしょう。ところが衡州から80kmほど遡った方田駅(ほうでんえき)で洪
水に遇い、舟を進めることができなくなりました。
 杜甫は五日間も食事ができないほどの窮状におちいりますが、耒陽県(湖南省耒
陽県)の県令の聶(じょう)氏が聞きつけ、食糧を届けて救ってくれました。その経緯は詩
の長文の題詞につづられています。
急場を救ってくれた県令に感謝するため、杜甫は方田駅から北へ20kmほどの陸路を
たどって耒陽県の県衙(けんが)へゆき、みずから詩を贈って礼を述べたようです。 詩
題の長さは、よほど嬉しかった心境を表しています。
 五言古詩  「迴 棹
 方田駅で洪水に遭ったために、杜甫は林州(ちんしゅう)に行くことを諦めます。舟をか
えして衡州にもどり、そこに留まりました。衡州にいた夏のあいだに、杜甫は北への「迴
棹」(かいとう)を決意したようです。
舟中に、溜まるのは酒の空瓶だけだと嘆きます。体も洗えず、雨漏りで濡れる病気の
体です。食事もあまり咽喉を通らなくなり、「蓴滑」を添えて流し込むありさまです。
 五言古詩  「風疾舟中伏枕書懐三十六韻   奉呈湖南親友
   この詩は『杜少陵詩集』の最後に置かれており、湖上をゆく杜甫の絶筆とされて
います。衡州で「迴棹」を決意した杜甫は、ほどなく潭州の兵乱も収まったので、衡州
から潭州に移ると、秋のあいだは潭州にとどまって北航の準備をととのえました。世話に
なった知友に別れの挨拶をし、潭州を船出したのは冬のはじめでした。
 詩は舟中に病気の身を横たえながら、潭州の親友に贈ったものです。
 病の身に薬を飲み、杖の援けを借りながら、杜甫の反省はつづきます。一度つまず
いた身が恰好よく歩こうとしても、結局は知己の親切に頼る生活です。。特に潭州で
は多くの友人に快く迎えられ、そのことに重ねて感謝しています。昌江の城市に斐隠
(はいいん)という名医がおり、病が重くなった杜甫は斐隠の治療を受けるために昌江の
町の岸辺に舟を繋ぎ、停泊中に舟中で家族に看取られ、没した。大暦五年(770)の
冬、享年五十九歳でした。

杜甫は岳陽に近い湖岸で亡くなり、岳陽に仮埋葬されたというのが通説でしたが、
1980年代に研究がすすみ、杜甫は洞庭湖の中ほどから東へ汨羅水を遡り、汨羅水
の中流北岸にある昌江(湖南省平江県)で亡くなったという説が有力になっています。
平江県大橋郷小田村に高さ1m余の封土で覆われた墓があり、「唐左拾遺工部員
外郎杜文貞公之墓」と刻んだ墓碑が建っているといいます。「文貞公」というのは元の
順帝が至正二年(1342)に追贈した送り名です。付近に七百三十一人の杜姓の者
は、春秋二回、杜甫墓をいまもまもりつづけています。

 


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