
ウォータークーラー
ヒアリングは一番の苦手で、試験時間が終わったときは、緊張で口の中がカラカラに渇いていた。
けれども、僕が志望する高校では、ヒアリングは必ず出題される。
結局、場数を踏むしかない。
本番までに、あと何回模試を受けられるだろうか……
考えながら、僕は廊下に出た。
最後の国語の試験の前に、水を飲んでおこうと思ったのだ。
廊下の端のトイレの前にウォータークーラーがあるのを、今朝、この会場に着いたときに見つけていた。
ところが、そこまで行ってみると、何人かの受験生が集まって、
「ヌルくてマジィ」「うそぉ、最悪ぅ」
などと、口々に言っていた。
どうやら、ウォータークーラーが壊れているらしい。
これなら水道の水のほうがマシだと言って、そのグループは立ち去ったが、
(せっかく飲むなら、水道じゃなくて冷たい水のほうがいいや)
贅沢なことを、僕は考えてしまった。
よその階に行けば、他にもウォータークーラーがあるはずだ。
次の試験まで、まだ十五分あるし、国語は僕の得意科目。
いまさら参考書を見直す必要はないから、ギリギリに教室に戻ってもいいだろう。
ここは校舎の二階なので、僕は三階へ行ってみることにした。
今回の模試の会場は、ケトル学院高校だった。
スポーツの強豪校として有名だが、とある宗教団体の系列の学校ということでも知られている。
今年、初出場した甲子園では、生徒や父兄が奇妙なダンスを踊りながら応援している姿で話題になった。
それはともかく、模試の機会でもなければ、僕がこの学校を訪ねることはなかっただろう。
僕が目指していたのは、もう少し上のランクの高校なのだ。
三階のウォータークーラーも使えなかった。
『故障』と貼り紙がしてあったのだ。
甲子園まで出たくせに、ウォータークーラーくらい直しておいてほしい(甲子園は関係ないか?)。
(水道の水で、我慢するか……)
あきらめかけた僕は、ふと窓の外を見て、中庭を挟んだ向こうに、もう一つ校舎があるのが目についた。
こちらの校舎とは建物の中ほどで、渡り廊下で結ばれている(空から見れば「H」型になるだろう)。
向こうにも、ウォータークーラーはあるんじゃないか?
まさか、学校中で壊れていることもないだろう。
さっそく僕は、そちらの校舎へ行ってみることにした。
試験の前に余裕というか、あきらめが悪いというべきか。
ところが、渡り廊下の途中の立て札を見て、僕は足を止めることになった。
『東校舎三階 特別進学クラス教室 一般生徒の立入を禁ず』
ケトル学院に「特別進学クラス」があるなんて、初めて知った。
少なくとも去年までは、それほど高い進学実績はないから、できたばかりかもしれない。
引き返すか? 引き返すべきだよな。
でも、元の校舎に戻って二階に下りて、それからまた東校舎へ行くのも、面倒だ。
僕はただ、水を飲みたいだけなのだ。
誰かに見つかったら、立入禁止だとは気づかなかったと、とぼけよう。
僕は模試に参加しただけの受験生で、それほど怒られることもないだろう。
それに――ケトル学院に「特別進学クラス」があるなら、志望校の一つに加えてもいい。
その下見ということで、教室を覗かせてもらったって、いいだろう。
身勝手な理屈をあれこれ考えて、要するにあきらめの悪すぎる僕は、東校舎の三階に足を踏み入れた。
人がいる様子はなかった。
しんと静まり返った廊下にも教室にも、明かりはついていない。
もちろん、きょうは日曜だから、当然といえば当然だ。
肝心のウォータークーラーは、あるだろうか……
僕が考えたそのとき、タイミングよく、
――ブーーン……
廊下の先から、何か機械がうなりだす音が聞こえてきた。
ウォータークーラーだった。ついに見つけた。
暗がりで、よくは見えないけど、四角い箱型のシルエットは間違いない。
音がしているということは、ちゃんと電源が入っていて使えるということだろう。
ほっとしながら僕は、そちらに向かい歩きだした。
ここまで来て、よく冷えたウォータークーラーの水が飲めないのは、がっかりだ。
途中、廊下に並ぶ教室を覗いてみる。
しかし、どの教室も何の変哲もなく、この一角が立入禁止になっている理由はわからない。
休み時間とかに、一般の生徒が出入すると、騒がしくなるからかな。
「特別進学クラス」の生徒は、休み時間でも勉強したいガリ勉たちなのかも……
ぎょっとして、僕は足を止めた。
近くまで来てみると、ウォータークーラーの上に、人間の生首が載っているように見えたからだ。
いや。実際、そこには首があった。
ポニーテールの髪に白いリボンを結んだ、女の子の首。眠っているように目は閉じている。
ひどいイタズラだと思った。マネキンか何かの首だろう。
「特別進学クラス」を妬んだ一般の生徒が、嫌がらせに置いたのか……
女の子の首が、ぱちりと目を開けて、僕は「ひっ……!」と息を呑んだ。
びっくりしたときに、僕は悲鳴を上げるのではなく「硬直」すると、友達によく言われる。
自分がそういう習性でよかったと、思わずにいられなかった。
そうじゃなければ、僕の悲鳴は学校じゅうに響いて、大騒ぎになっていたことだろう。
女の子は、にっこりと僕に微笑みかけてきた。
「おはようございます」
「あ……、おはようございます……」
僕も挨拶を返したけど、顔がひきつっているのが、自分でもわかる。
彼女は、いったい何なのだ?
首だけで生きている。あるいは、首だけの亡霊……
そんなわけは、ない。普通に考えれば、体はウォータークーラーの中に隠しているのだろう。
つまり、このウォータークーラーは、よくできたニセ物だ。
でも、何のため? 文化祭か何かの仮装の準備?
いや……
ウォータークーラーの前面に、女性のオッパイが付いていることに気づき、僕は、あわてて目をそらした。
まさか女の子は、裸でウォータークーラー(のニセ物)の中に入っているのか??
そんなはずなかった。オッパイもニセ物に決まっている。
でも、こんなエッチな仮装で文化祭に参加することを、学校が許可するとは思えない。
それとも「特別進学クラス」に限っては、許されてしまうのか……
「――『特進クラス』の方じゃ、ないですよね?」
女の子に訊かれて、僕は我に返った。
彼女の顔を見て、再びあわてて目をそらす。
ところが、目を伏せるとオッパイが目について、作り物だと思っても直視はできなくて。
結局、女の子の顔だけ見るようにしようと、僕は顔を上げた。
彼女が在校生ならば僕よりは先輩で、「女の子」と呼ぶのは失礼だろうけど。
「すいません、模試で来たんですけど、水が飲みたくて、迷っちゃって……」
言いわけにならない言いわけを僕がすると、彼女は、くすっと笑い、
「私の『お水』でよろしければ、どうぞ」
彼女の顔の前から、本物のウォータークーラーのように水がほとばしり、僕は目を丸くした。
「すごい……」
「ウォータークーラーですから、私」
にっこりとして答える彼女に、僕は少し興奮して、
「いや、すごい仮装です。文化祭で発表するんですか?」
「仮装? いえ、私は本物のウォータークーラーです」
「え? でも……」
納得できずにいた僕は、彼女の顔の前にほとばしる水が、どこから吹き出しているか気づいて、
「え……!?」
もう一度、硬直することになった。
その部分は、どう見ても、女性の「ある部分」にそっくりだった。
まだ本物を見たことはない。でも、ネットや友だちに借りたビデオで目にする機会はあった。
女性器だった。
毛は生えていないけど、そうとしか見えなかった。
本来、縦長のO字型であるはずのその器官は、無理やり押し広げたように、ぱっくりと丸く口を開けている。
肌色の外縁部は、ぷっくら盛り上がり、その内側は濡れ光る紅色の体組織。
水は、その紅色の組織に穿たれた小さな穴から、弧を描くように吹き出している。
そして、女性器であるならば膣に相当するはずの、やや大きめの穴に流れ込んでいる。
ということは、水の吹き出し口は、尿道口に当たるのだろうか。
彼女が言った。
「お水、飲まないんですか?」
「あ、え、いや……」
どうしたものか、僕が答えられずにいると、水は止まった。
「もったいないから、止めておきますね」
彼女は言って、にっこりとする。
「また飲みたくなったときは、私のオッパイにタッチしてください。スイッチになっていますから」
僕は、恐る恐るたずねた。
「あの……、あなたは……、この学校の生徒では、ないんですか……?」
「この学校の、備品です。ウォータークーラーですから」
「つまり……、ロボットってこと……?」
ようやく僕は、その可能性に思い至った。
彼女は生身の人間ではなく、よく出来たロボットなのだ。
それならば、全て納得がいく。
女性器(そっくりの部分)を人目に晒して平気でいるのも。
休日の誰もいない学校の廊下に一人で佇んでいたのも。
彼女がロボットだったからだ。
それにしては、本物そっくりのオッパイや性器を取り付けるなんて、悪趣味だけど……
しかし、彼女の返事に、僕はますます驚かされることになった。
「そうですね、ロボットということになるのでしょうか。いまは『人間』じゃないですから」
「いまは……って、元は人間なんですか??」
「ええ。でも、いまはウォータークーラーです」
「じゃあ、この姿は、本当に体を『改造』して……」
「はい。ウォータークーラーになるために手術を受けました」
彼女は笑顔のまま答える。
僕は、まったく信じられなくて、首を振り、
「人間の体を、こんな『改造』だなんて、そんな……」
ウォータークーラーの女の子が言った。
「『無私の奉仕』って、わかりますか?」
「この学校の基本理念……だよね。試験会場の教室にも掲げてあった……」
僕が答えると、彼女は微笑み、
「『私(わたくし)』を捨てて、人類共同体に『奉仕』する。それが、人間の最も清らかな姿なんです」
彼女は説明してくれた。
黙々と粉を挽く風車のように。
あるいは、夜道を照らすガス灯のように。
ただ静かに、人類共同体のために奉仕することで、天国への扉は開かれるのだと――
「もちろん神様も、全ての人間が百パーセント、自分を捨てることまで求めてはいません」
彼女は言う。
「文化を発展させたり、次の世代を担う子供たちを生み育てたり。人間には、それぞれ役割があります」
世の中には、様々な人間がいる。
生まれつきの才能がある人。才能を努力で補っている人。
だから神様は、人間が出来る以上のことを求めたりしない。
それぞれが、それぞれの立場で、人類共同体の発展に尽くせばいい。
けれども。そうした共同体に、ただ無私無欲に「奉仕」する人間がいるとすれば。
彼らこそが、最も天国に近い人々なのだ――
「私、学校のテストとか全然ダメだったんです」
彼女は言って、悪戯っぽく笑った。
「この高校に合格したのも奇跡なくらい。ううん、きっと本当に神様の奇跡」
ロボットなんかじゃない。
それは「生身」の女の子の笑みだった。
「だから、私が人類共同体の発展に貢献できても、学問の分野じゃないだろうと思ってたんです」
「…………」
僕は黙って彼女の話をきいている。そろそろ試験が始まる頃だけど、構うもんか。
彼女は言葉を続けた。
「そうしたら、この高校に入って、備品がいろいろ壊れているのを見て。『これだ!』って思ったんです」
「何で貢献できるか、見つけたんだ……?」
「ええ」
ようやく理解し始めた僕に、彼女は嬉しそうにうなずく。
「私がこの高校に入ったのは、壊れている備品の代わりに、学校で勉強するみんなに『奉仕』するため」
チャイムが鳴りだした。その音に負けないくらい、彼女は、力強く言いきった。
「だから私、ウォータークーラーになったんです」
――彼女の言う「無私の奉仕」を、きっと僕は、本当には理解していない。
僕が「人類共同体」への貢献に努力するとすれば、それは「奉仕」の心からではない。
彼女のような女の子たちに「奉仕」される立場になりたいという願望なのだ。
僕は、ケトル学院高校を第一志望にしようと心に決めた――
《終わり》