貴公女たちの悪戯


 

 ――ぎぎぎぎ、ぎぎぎ……

 

 軋んだ音を立てて滑車が回り、跳ね橋が下ろされていく。

 黒ずんだ石造りの城壁は、夕陽に鈍く輝きながら高く厳めしくそびえている。

 川沿いに開けた州都から、やや離れた丘に建つ城郭であった。

 いや――城壁に囲まれてはいるが、軍事的な機能を要求された施設ではないようだ。

 その中心は丘の頂にある、時計塔を備えた美麗な居館。

 その周囲に礼拝堂と、一般的な造りの居館が四つ、建ち並ぶ。

 いずれも窓の多いそれらの建物は、戦闘時における防御力には欠けるだろう。

 とはいえ――

 この地方に戦禍が及んだのは、数世代前の王国建国期のこと。

 いまは国境は遠く、王権は強固であり、内憂も外患も長らくその兆しを見せていない。

 まして――ここは「法術学校」であった。

 王室の藩屏たる「法貴族」(俗に「法族」ともいう)の子弟が集う場だ。

 仇なす愚か者が、いよう筈もない。

 

 ――ぎぎぎぎ……ずぅぅぅぅぅん!

 

 橋が下りきり、年老いた小間使いの男は、馬車馬に鞭を入れた。

「……どうっ!」

 一頭立ての荷馬車であった。

 幌は畳んでおり、荷台に酒樽や木箱、それに麦か豆が入っているらしい麻袋をいくつか積んでいる。

 ゆっくりと走り出した荷馬車は、がたがた揺れながら跳ね橋を越えて、構内に入った。

 見張り塔の番卒たちがそれを見届け、数人がかりで巻き上げ機を回して橋を引き上げる。

 歩を緩めかけた馬に鞭を入れ、小間使いの男は荷馬車を進めた。

 ちょうど夕食の時刻である。学生や教員の姿はない。皆、食堂に集っている筈だ。

 平民身分の使用人たちとはすれ違うが、荷馬車に注意を払う者はいない。

 皆、それぞれ言いつかった仕事をこなすことで精一杯なのだ。

 法族は仕えやすい主人ではない。

 気まぐれで、かつ残忍で、意にそぐわない使用人への罰に法術を用いることをためらわない。

 いまの時間に小間使いの男が街での買出しから戻るのは、珍しいことである筈だが。

 一棟の――学生寮の一つとして使われている居館の裏手、城壁との間の狭い通路に、荷馬車は回った。

 そこをしばらく走ったのち、

「どうっ、どうっ……」

 小間使いの男は手綱を操り、荷馬車を停めた。

「……この辺りでよろしいですか、お坊ちゃま方?」

 荷台を振り返って、言う。そこには誰も乗っていない筈だったが――

「ご苦労だった。このことは他言無用だ」

 夕闇から滲み出すように、二人の少年が姿を現した。

 法術士の証しである杖を携え、マントを羽織っている。まだ見習いらしくマントは灰色だったが。

 少年の一人、赤毛で大柄なほうが麻袋の一つをつかみ、荷台の上を引きずった。

「お手伝いしましょうか?」

 小間使いの男が馬車から降りて言うと、もう一人の金髪で美貌の少年が、ぴしゃりと撥ねつけるように、

「構うな。おまえは何も見ていない」

「そうおっしゃるなら、そのように、はい」

 小間使いの男は頭を下げる。

 だが、赤毛の少年が地面に引き落とした麻袋から、

「……ぐぅっ……!」

 人間のものらしい呻きが聞こえて、男は麻袋を見やり、おどけるように眼を丸くした。

「おやおや。お荷物に鼠か猫が紛れ込んでおりますようで」

「黙れ!」

 金髪の少年が叫び、男に杖を突きつける。

 男は、ぎょっと眼を剥いたが、すぐに卑屈な笑みを浮かべて、

「……空耳でしたようで」

「小間使いが一人、行方知れずになったところで先生方は気に留めないぞ」

「おっしゃる通りで、はい」

 彼らのやりとりは気に留めず、赤毛の少年は黙って麻袋を引きずって行こうとした。

「ローファン!」

 金髪の少年が赤毛の相方を呼び止める。

「そのまま引きずっていく気か? 袋が破けるぞ!」

「この汚い荷物を俺に担げとでも?」

 ぎろりと睨み返して訊ねる赤毛の少年に、金髪の少年は苦い顔で、

「法術を使えばいいだろう」

「俺の法術は敵に向ける刃(やいば)だ。馬や牛の仕事の代わりには使わない」

 赤毛の少年がきっぱりと言い、金髪の少年は舌打ちした。

「なら、ぼくが運ぶ」

「ああ、そうしろ」

 赤毛の少年は麻袋から手を離す。

 金髪の少年は荷物に大股に歩み寄り、杖を向けて呪文を唱えた。

《浮遊》の術だ。ふわりと麻袋が宙に浮かび上がる。

「……んんっ……」

 また呻き声がして、もぞもぞと袋の中で何かが動いている様子があったが、誰も何も言わず。

 金髪の少年が麻袋に杖を向けたまま歩き出すと、袋が杖に引っぱられるように飛んだ。

 赤毛の少年は黙って、そのあとを追う。

 二人が学生寮の建物に沿って進み、先の角を曲がるのを、小間使いの男は卑屈な笑みで見送った。

 そして少年たちの姿が消えたところで、小莫迦にしたように「ふんっ」と鼻を鳴らし、

「やれやれ、小僧ども。おまえたちが秘密にしておるつもりの悪さこそ、先生方は気に留めておられんわい」

 

 

 乱暴に床に投げ出され、シィリェスは苦鳴を上げた。

「……ぐぅっ……!」

 猿轡をされて麻袋の中に押し込まれていた。

 窮屈に曲げさせられた膝が胸を圧迫していて、苦しくて吐き気がこみ上げた。

 逆に、後ろ手にきつく縛られた腕は痺れて痛みを感じなくなっている。

 不意に顔に光が当たり、シィリェスは一瞬、眼が眩んだ。

 麻袋が切り裂かれているのだった。

 その裂け目から、自分と同じ年頃の――しかし法族か、平民でも富裕層に属すらしい金髪の少女の顔が覗く。

 ゆるやかに波打つ金髪はきちんと櫛を入れられ、銀の耳飾りを着けている。

 さらに袋が切り開かれて、相手が意外に質素な白いシャツの上に法術士のマントを着けていることに気づく。

 色は青。高位の法貴族のものである。年齢は十五、六としか見えず、本来なら見習いの灰色の筈なのに。

 彼女が麻袋を裂いている道具は、短剣ではなく杖だった。法術を使っているのだろう。

 ほかに三人の、いずれも灰色のマントを着けた少年たちが、シィリェスを取り囲んでいる。

 ここは広間のようだった。ほかの呼び名がシィリェスにはわからなかった。

 一方の壁面に窓が並び、夕陽が差している。先ほど顔に当たった光はそれだった。

 天井からは蝋燭を並べたシャンデリアがいくつか吊るされているが、まだ火は灯っていない。

 麻袋が足元まで切り裂かれ、ようやくシィリェスは脚を伸ばすことができた。

「……んはぁっ……」

 猿轡はされたままだったが、大きく息を吐く。だいぶ楽になった。

「奴隷にしては綺麗な子ね。娼館から連れて来たの?」

 涼やかな声で、青いマントの少女が少年たちに訊ねた。

「機織り工場の裏にいた」

 赤い髪の大柄な少年が答えて言って、青いマントの少女は形のいい弓なりの眉をひそめ、

「お金を払って買ったんじゃないの?」

「工場の奴隷なら主人は平民だ」

「だから黙って連れて来た? 誰にも見つからなかったでしょうね。面倒はごめんだわ」

 少女は手にしていた杖を腰のベルトに差し、シィリェスから一歩下がった。

「誰か、この子の猿轡を外して」

 言われた少年たちは、誰も反応しない。

 赤毛の少年は、ぞっとするような冷たい眼をシィリェスに向けている。

 癖のある栗色の髪の少年は、こちらは他人事みたいに、にこにこ笑っている。

 女の子のような可愛らしい顔立ちで、男とわかったのはシャツの胸にふくらみがないからだったが。

 三人目の少年は金髪で、法族らしく貴公子然とした美形だ。眼を伏せ、むっつりと黙り込んでいる。

 彼こそがシィリェスをこの場に掠って来た当人だった。

 身体が麻痺する法術をシィリェスにかけ、手足を縛り猿轡をかませて麻袋に押し込めたのである。

 青いマントの少女は舌打ちした。

「奴隷女に触れたら手が穢れるとでも? 娼館のベッドの上なら平気で抱けるくせに」

 少女は金髪の少年を見やり、

「ドノリィ、あなたが外して」

「……ああ」

 ドノリィという名らしい金髪の少年は渋々と頷き、シィリェスのそばにしゃがんで、ボロ布の猿轡を解く。

「……ぷはっ」

 シィリェスは息をついた。

 そしてすぐに、法族の少年少女の中でこの場を仕切っているらしい青いマントの少女に訴えかけた。

「法族様、私はロシュターヴの街で機織り工場を営むディミナリク様に仕える婢(はしため)です」

 冷笑を浮かべる少女の顔を見上げ、シィリェスは懇願する。

「私が気づかぬうちに法族様に不調法を致していたのなら申しわけございません。ですが……」

「うるさい」

 青いマントの少女は再び杖を抜いてシィリェスに向けた。

 杖の先が蒼白い光を放ち、

 

 ――ばちっ!

 

 シィリェスの頭のすぐ横の床で何かが弾けた。

「……ひっ……!」

 怯えたシィリェスの顎に杖を当てて顔を上げさせ、少女は、にやにやと笑い、

「《雷撃》――つまり雷を生み出す法術よ。威力は弱めてるけど、当たったら痛いでしょうね」

「……お、お赦しください……」

 シィリェスは涙眼で少女に哀願する。

 青いマントの少女は、杖の先でシィリェスの頬を突いた。

「綺麗な子。本当に奴隷? ただの使用人だったら厄介ね。袖をまくって見せなさい」

 シィリェスは顔を引きつらせ、

「わ……私は婢です、間違いありません。ですから……」

「見せろと言ってるの」

 頬を強く杖で押されて、シィリェスは涙をこぼしながら右袖をまくる。

 二の腕に焼印の痕があった。

 奴隷の出自により焼印は異なり、異民族なら牛の全身像、宗教的異端なら山羊の頭を象ったものとなる。

 だが、シィリェスに押された焼印は、円の内側に「×」を記したものだった。

「親に売られて奴隷になったのか。そりゃ情けなくて隠したいでしょうね」

 嘲るように言われて、ぎゅっと眼をつむって悔しさを飲み込み、シィリェスは袖を戻した。

 その様子を、青いマントの少女は冷ややかに笑って眺める。奴隷娘の境遇には同情の欠片もない。

 黒い髪はしばらく櫛を通しておらず乱れているが、確かにシィリェスは綺麗な顔立ちだった。

 着衣越しでも十六という年齢の割に発育した乳房の大きさがわかる。

 今度はその乳房を杖で突いて、青いマントの少女は訊ねた。

「機織り工場で働いたあと、夜は娼館で客をとるんでしょ?」

「いえ……」

 シィリェスは首を振り、

「ディミナリク様は、そのようなことはお命じになりません。私は工場で働かせて頂いているだけです」

「嘘を言わないで。女奴隷のおつとめなんて、春をひさぐほうが主でしょ」

「法族様……法族様は私に、何故このような罰をお与えになるのですか……?」

 涙を流してシィリェスは訊ねた。すると少女は眉をしかめ、

「法族法族って、そこいらのヒラ法術士と一緒にしないで。わたしはグラバルナハ公爵家の継承者よ」

「申しわけありません公爵様……女公様」

 慌てて頭を下げたシィリェスに、ばさりと青いマントを翻してみせて少女は、

「女公じゃないわ、即位式がまだだから。でも、もう格式上は公爵待遇」

「校長よりも格上だからね。誰もハルシェーニュには文句をつけられない」

 栗毛の少年が揶揄するように言って、ハルシェーニュという名らしい少女は、にやりと笑い、

「文句を言われるようなヘマはしないわ。ドノリィがこの子を連れて来るとき誰かに見られてなければ」

「そんなドジは踏まない。だけど、ぼくはきちんと所有者から奴隷を買い受けるつもりだった」

 ドノリィが言うと、栗毛の少年がおどけるように眼を丸くして、

「でもローファンに押しきられたんだね。毎度のことだけど」

「そういうおまえは、どこで何をしてた、ネクエル?」

「夕食だよ。きょうのメインディッシュはボクの好物の鴨のローストだった」

 栗毛の少年は悪びれた様子もなく答えて言う。

 彼の名はネクエルで、赤毛の少年がローファンというのだろうとシィリェスは見当をつけた。

 奴隷娘を一人、掠うことと、夕食の献立を同じレベルで彼らは語っていた。

 名家に生まれ、先祖代々の法術の才能を受け継いだというだけで、法族は特権意識の塊なのだった。

 シィリェスの主人、ディミナリクは王室御用達の機織り工場を営む富裕な商人だが、身分は平民だ。

 彼に仕える奴隷を一人、勾引(かどわ)かしたことに、法族の少年少女は罪悪感の欠片もないらしい。

 しかし――彼らの目的は、いったい何なのか?

「それで……女公様、私はどうして、この場に連れて来られたのでしょうか……?」

 恐る恐るシィリェスが訊ねると、ハルシェーニュは、にやりとした。

「ちょっとした法術の実験のためよ。無学な奴隷のおまえが法術の発展に尽くせるの。光栄に思いなさい」

「え……どういうことですか?」

 シィリェスは怯えきった顔になる。法術は、それを操れない平民や奴隷にとって恐怖の対象だ。

 ハルシェーニュはシィリェスに杖を向けた。

「おまえは黙って言うことを聞けばいいの。手足の縄を切ってあげるわ。うつ伏せに床に転がりなさい」

「あの……女公様、私がこの場にいることを、ディミナリク様にお伝え頂けませんでしょうか……?」

 シィリェスは恐る恐る言ってみた。

「日没まで働かなければいけないところを、途中で抜け出すかたちになったものですから……」

 本当の意図は、ディミナリクが自分を連れ戻してくれるのではないかと期待してのことだった。

 ディミナリクは奴隷にとって最良といっていい主人だ。

 恣意的な罰を与えられたことはないし、娼婦の真似を強要されたこともない。

 賃金こそ与えられないものの、彼の工場における奴隷の待遇は自由民の徒弟と大差ないのである。

 何より、硬骨漢のディミナリクは横暴な法族を嫌っていた。

 彼が家族の前で、あるいは仲間の商人との間で、法族を揶揄しているのをシィリェスも何度か耳にした。

 それでいて街の領主、ロシュターヴ大公を初めとする王族の有力者とは、しっかり交遊関係を築いている。

 硬軟の使い分けにより、ディミナリクは王家の御用商人の地位を確固としているのである。

 そんな彼が、他人の奴隷を黙って連れ去るような無法な法族の言いなりになる筈がない。

 ハルシェーニュはシィリェスの乳房を再び杖で突いた。

「黙って言うことを聞けと言ったでしょう? いっそ手足をまとめて切り落としてあげようか?」

「お……お赦しください、いま、おっしゃる通りに致しますから……」

 シィリェスは手足を縛められたまま床の上を転がり、うつ伏せになった。

 その手首と足首の縄を、ハルシェーニュは法術を込めた杖で切り払う。

「さあ、今度は起き上がって服を脱ぎなさい。下穿きまで全部」

「えっ? あの……お待ちください、手が痺れてしまって……」

 身体を起こそうとして手に力が入らず、シィリェスは床にへばり伏した。

 自分の両手首から先が紫に変色していることに気づき、「ひっ……」と息を呑む。

 ハルシェーニュも、無残なことになっているシィリェスの両手を見やり、あきれ顔で、

「いったい、どんな縛り方をしたの、ドノリィ?」

「ぼくじゃない。いや、縛ったのはぼくだが、そのあとローファンが法術をかけた」

「縄が緩んで抵抗されたら面倒だろう? それに、どうせ腕も『造り変える』んだ」

 ローファンがにこりともせずに言って、ハルシェーニュは眉をしかめ、

「腐らせた部分には法術が効かないかもしれないわ」

「なら、切り落として新しい腕を生やしてやれ。それも法術の練習だ」

 ローファンがベルトに差していた杖を抜き、シィリェスは悲鳴を上げた。

「ひっ……ひぃぃぃぃっ!」

「やめろ」

 ドノリィが杖の前に片手をかざすかたちでローファンを制した。

 そしてハルシェーニュを見やり、

「怖がらせて嬲るのが目的じゃないだろう? 先に例の『薬』を飲ませたらどうだ?」

「抵抗できなくするだけで、恐怖を消してやる薬じゃないけどね」

 ハルシェーニュはベルトにつけていたポーチからガラスの小壜を出した。

 コルクの栓を外して、シィリェスのそばにしゃがみ、

「顔を上に向けて、口を開けなさい。ロクな味じゃないだろうけど我慢して飲み込むのよ」

 シィリェスは涙を流して首を振る。

「お……お赦しください、女公様……」

「まだ女公じゃないわ。どっちでもいいけど」

 ハルシェーニュは哀れな奴隷娘の顎を片手でつかみ、口を開けさせた。

 両手の痺れきったシィリェスには抵抗できない。

「ちゃんと飲むのよ。吐き出したりしたら、おまえの両耳を削ぎ落としてやるから」

「……ああっ……ぐぅっ……」

 涙をあふれさせるシィリェスの口に、壜の中身の液体が注がれた。

「半分も飲ませればいいかしら。さあ、飲み干して」

「あがぁ……」

 シィリェスは怯えきった眼を法族の少女に向けながら、しばらくためらっていたが、やがて。

 ごくり、と、喉を鳴らして薬を飲み込んだ。

 ハルシェーニュは冷笑して手を離し、シィリェスは顔を伏せて、けほけほと咳き込む。

「誰か、この可愛い奴隷娘の服を脱がせてやりたい人?」

 ハルシェーニュは仲間の少年たちを見渡した。

「いないの? じゃあ、ドノリィ」

「またぼくか」

 ドノリィは渋々ながら進み出て、シィリェスの服をつかみ、杖の先を当てた。

「動くなよ」

「…………」

 シィリェスは泣き濡れた眼をドノリィに向けた。救いを求めるように、首を振る。

「……ちっ!」

 ドノリィは舌打ちして視線をそらし、奴隷娘の服を切り裂き始めた。

「……ああっ、うぅ……」

 シィリェスは嗚咽を上げたが、薬の効果か、その身を強ばらせているだけで抵抗しない。

 やがてシィリェスは丸裸にされた。

 豊かな乳房には愛らしいピンクの乳首が添えられ、腰は細く締まり、脚はしなやかに伸びている。

 顔立ちと同様、美麗な裸身だった。

 ただし手入れをする習慣がないのか、下腹には黒々とした草叢が生い茂っている。

「酷くモジャモジャね。娼館で働いてないというのは本当かも。これじゃ客が許さないでしょ」

 ハルシェーニュが意地悪く笑って、

「おまえのその腹に魔法陣を描かなきゃならないの。大サービスで法術で脱毛してあげるわ」

「キミも自分でその法術、使ってるのかい?」

 にこにこしながらネクエルが言って、ハルシェーニュは苦いものを飲み込んだ顔で相手を睨み、

「なに言ってるのよ、莫迦」

「お……お赦しを、女公様……」

 哀願するシィリェスに、ハルシェーニュは杖を突きつけた。

「おまえは大人しく床の上で寝てなさい。手足を大きく広げてね」

「……誰か……、……どなたか、お助けを……」

 言われるがまま床に横たわりながらも、シィリェスは救いを求めて周囲に視線を彷徨わせる。

 ハルシェーニュはその哀れな様子を嘲笑い、

「無駄よ。ここは貴賓室、学校中でこの部屋を使う権利があるのは、公爵待遇のわたしだけ」

「よそ者の奴隷にそんなこと言っても、通じないと思うけど」

 ネクエルがくすくす笑って、

「それにしても暗くなってきたね。明かりをつけようか」

 杖を抜いて、シャンデリアに向ける。そして軽く振ると、蝋燭に一斉に火が灯った。

 自分の置かれた状況を一瞬、忘れたか、ぽかんと口を開けてシィリェスはシャンデリアを見上げる。

「おまえには、こっちの法術よ」

 ハルシェーニュはシィリェスの下腹に杖を向け、小声で呪文を呟いた。

 我に返ったシィリェスが顔を恐怖に引きつらせ、

「やっ……、やめてください……」

 だが呪文は完成し、杖の先から淡い光が放たれた。

 ばさり、と、シィリェスの股間から陰毛がまとめて抜け落ちて、広げさせられた脚の間に落ちた。

 さらにハルシェーニュが杖を振ると、抜けた毛が吹き飛び、奴隷娘の股間は幼子さながらの様相になる。

 ぷっくらした丘に走る裂け目から、鮮やかなピンクの肉襞が僅かに覗いていた。

 ネクエルが感心したように、

「便利な術だねえ。あとでボクにも教えてよ。いちいち髭を抜く手間が省ける」

「あとでね。さて、無駄毛処理も終わって、あとは魔法陣を描けば準備完成」

 ハルシェーニュは腰のポーチから、手のひらの中に収まるほど小さく製本された書物を取り出した。

 ローファンが訊ねる。

「どんな妖魔を憑ける気だ?」

「そうね。せっかく綺麗な子が実験台だし、逆におぞましいところを選んであげましょうか」

「……お、お赦しを……、……お願いですから……」

 身を震わせて泣きじゃくるシィリェスに、ハルシェーニュは、にやりと笑いかけ、

「無学な奴隷じゃ『キメラ』なんて知らないかしら? 色んな動物が入り混じった姿をした伝説の怪物」

「……し、しらないです……、……たすけて……」

「助けなんて来ないわよ。そのキメラみたいな姿に、おまえの身体を造り変えるの」

「……そんな……いやです……やっ、やあっ……!」

 シィリェスは涙まみれの顔で、必死に首を振る。

 だが、薬の効果であろう。先ほどの命令には抗わず、手足を大きく広げて床に横たわったままだ。

 ハルシェーニュは書物を左手に広げ、シィリェスの臍の下に向けて右手の杖を構えた。

「おまえの身体を苗床にして、同時に複数の妖魔を召還するのよ」

 ちらちらと書物に目をやりながら、呪文を唱え始める。

 その先の説明はネクエルが引き継いだ。

「あえて下等な妖魔ばかり選んでね。強力な奴が一匹入ると、そいつの影響が強く出すぎるから」

「……やっ、やぁっ、おねがい、たすけて……」

 シィリェスがハルシェーニュに、ネクエルに、ローファンに順に救いを求める眼を向ける。

 そして、最後にドノリィを見た。

「……法族さま、おねがい……」

「…………っ!」

 ドノリィは苦い顔で舌打ちし、哀れな奴隷から眼を背ける。

 ハルシェーニュの杖の先が白い光を放った。

 それに共鳴するように、シィリェスの下腹部に白い光で描かれた魔法陣が輝き始める。

 円と六芒星を組み合わた紋章の内側に、古代の楔形文字による呪文がびっしり書き並べられたものだ。

「……あぁっ……熱い……いやぁっ……」

 シィリェスが身をよじり、かすれた悲鳴を上げる。

 杖の先の光が赤く変わった。

 すると、シィリェスの身体には白い光の魔法陣はそのまま、新たに赤い光の魔法陣が重なって出現した。

 杖の光は、さらに緑、青、黄色と変わり、そのたびに新しい色の光の魔法陣が重なって現れた。

 そして――それが最後となるのだろうか、杖の先から光ではなく黒い霧のようなものが滲み出す。

 同時に、シィリェスの身体には黒い魔法陣が現れた。

 呪文が完成した。ハルシェーニュが奴隷娘に向け、杖を突き出した。

「――出でよ、妖魔ども! 《重奏召還》!」

「……ああっ! ひっ、ひぃっ! ひぃぃぃぃぃっ……!」

 シィリェスは手足を広げた格好のまま、床の上でその身体を、びくびくと跳ねさせ――変貌が始まった。

 左右の足指がひきつり、爪が見る間に長く鋭く伸び、足の甲には野獣のような剛毛が生え揃った。

 一方、膝から脛とふくらはぎを経て足首までは、なめらかな素肌が醜くたるんでいく。

 たるんだ皮膚は、やがて強ばってヒビが走り、乾燥した泥人形のような惨状となる。

 太腿には左右で異なる変化が起きた。

 右の腿は黄色く変わり、皮膚の表面で沸騰が起きているような様相となる。

 すなわち、いくつもの水泡が現れては膿みを吹いて破裂して消え、再び現れてを繰り返す。

 左の腿は皮膚が半透明な緑に変わる。

 だが、その下に透けて見えるのは筋肉ではなく、ぶよぶよと蠢く眼球に似た組織の群体だ。

 魔法陣が描かれた下腹部は、何故か元の人間らしい姿のままだった。

 だが、臍から乳房の下までの腹部は陥没し、そこに小さな牙が幾重にも生えた口腔に似た器官が出現する。

 右腕は黒ずみ、肌にぬめりとした粘液が滲み出し、ぶくぶくと膨らんで間接や指が消失した。

 腕の代わりに軟体動物が生えたような有り様である。

 いっぽう、左腕は肌の色を保ったまま、太陽の下の氷のように溶けて――

 やがて肌色の粘液の水たまりと化した。変化に失敗したということだろうか。

 右の乳房には無数の穴が穿たれて海綿のような状態になった。

 左の乳房は一つが二つに、二つが四つに、四つが八つに――分裂を繰り返して葡萄の房のようになる。

 シィリェス自身の顔は、元のままだった。

 だが、髪の毛は自然と蠢き、絡み合って融合し――イソギンチャクのものに似た紫色の触手と化した。

 それは――「キメラ」と呼ぶにしても、あまりに無秩序な姿だった。

「……ああ……え、あぅ……ひっ……」

 実験台にされた奴隷は自身の腕と乳房と――視界に入る限りのものを見て、意味不明の呻きを上げている。

 困惑と恐怖と、絶望と諦観と――薄笑いが浮かんでは消え、もはや狂気の入口にいることは明らかだ。

「……うぷっ」

 ネクエルが口を押さえて、哀れな実験台に背を向けた。だが堪えきれず、身をかがめて嘔吐した。

「…………っ!」

 ローファンは舌打ちし、人外の姿となった奴隷娘とネクエルの両者に背を向ける。

「……いったい、何を召還したんだ……?」

 ドノリィが蒼ざめた顔でハルシェーニュに訊ねた。

 ハルシェーニュは泣き笑いを浮かべて一歩、後ずさり、

「魔導書に名前しか記されていない下等な妖魔をまとめて呼び出したのよ。そういう計画でしょ?」

「それだけで、こんな得体の知れない姿になるか? 腕とか脚とか、元の妖魔の姿が想像もつかないだろう?」

「わたしの想像だけど……聞いてくれる?」

 ハルシェーニュがすがるような眼をドノリィに向けて、ドノリィは怒ったように、

「何だよ! 言えよ!」

「きっと下等すぎて本来は実体がないの。でも、まとめて召還されたことで本来の能力以上の力を備えた」

「それで!?」

「それで……人間の心の闇を覗く力を得て、わたしたちが考え得る限りのおぞましい姿に化けたんだと思う」

「殺せ!」

 ローファンが怒鳴った。

 床に転がったままの奴隷娘を見やり、すぐに視線を上げてドノリィを睨み、

「この有り様じゃ、使い魔の役にも立たないだろ! さっさと殺して片付けろ!」

「……あぁぁ、ひぃ……、あぅ……、えぁ……」

 シィリェスは涙をこぼしながら笑っていた。

 法術をかけられて、自分の身体に何かが次々と入り込むのを感じた。

 背筋がざわつく、気味の悪い感覚だった。

 それが身体の中いっぱいになって、一気に弾けた。自分自身がふくらみきった泡になったようだった。

 そして左腕は喪われ、右腕と乳房は生まれもつかない有り様になった。

 恐らく全身が、そうなっていることだろう。

 正気でいられる筈がない。ただみじめに笑うしかないのだ。

「……俺が殺る! どけ!」

 ローファンがドノリィを押しのけ、奴隷娘を見下ろして杖を構えた。

「煉獄の底に消え失せろ……!」

 だが――

 

 ――バシィィィィィッ!

 

 ローファンの身体を白く眩い光が撃ち、彼は弾き飛ばされた。

「――こんな場所で、こそこそ何してる?」

 訊ねる声に、ハルシェーニュ、ドノリィ、それに吐き気をこらえ口を押さえながらのネクエルが振り向いた。

 広間の戸口に一人の少年が立っていた。

 黒い髪に黒い瞳、端正な面立ち。

 だが、その眼差しは、広間にいた少年少女たちの背筋をぞくりとさせるほど冷たい。

 杖を手にして、赤いマントを着けている。見習いではなく爵位を有する法術士だ。

「セルゥク!」

 ハルシェーニュが悲鳴のように叫んだ。ドノリィが愕然とした顔で、

「何で、きみが貴賓室に? ここは諸侯とその客人以外、立ち入りを許されない筈だ!」

「僕が宮廷伯に叙任されたことを忘れているようだな。貴賓室がどんな場所か覗いておこうと思ったのだが」

 セルゥクと呼ばれた少年は、冷たい視線をドノリィに向け、

「君こそ夕食の時間に姿がなかったが、この場所で何を?」

「くっ……」

 答えに詰まるドノリィに代わり、ネクエルが吐き気をこらえながら呻くように、

「この場に先客がいるのは見てわかるだろう。おまえは遠慮しろ……!」

 セルゥクはネクエルを無感動に一瞥すると、大股に広間に入って来た。

 床に横たわる、怪物化した姿のシィリェスの前で足を止め、

「……これは?」

 ハルシェーニュに冷たい視線を向けた。

「奴隷よ。ちょっとした事故」

 ハルシェーニュは気まずげに眼を逸らして答える。セルゥクは僅かに右の眉を上げ、

「校内に連れて入れる使用人は自由民だけだ。奴隷を立ち入らせることは禁止されている筈だが」

「だから事故だってば。いま片付けるから……」

「片付ける? これは君の奴隷か、ハルシェーニュ?」

「……ねえ」

 ハルシェーニュは恐る恐る眼を上げて、媚びるような笑みをセルゥクに向けた。

「法族はお互い敬意を払うべきだわ。そんな尋問のような言い方をしなくても」

「僕はここに入学したときから法族だが、宮廷伯に叙任されるまで君から敬意を向けてもらった記憶はない」

 セルゥクは突き放すように言い、ハルシェーニュは表情を強ばらせる。

「そんな言い方は公平じゃないわ」

「調子に乗るな! 平民上がり!」

 ネクエルが叫び、杖を抜いた。その彼をセルゥクは一瞥し、

「だが、いまは宮廷伯だ。その意味がわかるか?」

「おまえが成り上がり者だってことだ!」

「実力で成り上がったんだ。僕は貴賓室で無様に吐いたりしない」

「貴様……!」

 怒りで少女のような美貌を真っ赤にしたネクエルに、セルゥクは冷淡に言い放つ。

「使う気がない杖なら収めておけ。僕に法術で挑む度胸はないだろう? 君はそういう奴だ」

「ぐぅっ……!」

 ネクエルは悔しげに歯噛みするが、セルゥクに挑む勇気がないのは指摘された通りらしい。

 セルゥクは、ハルシェーニュに視線を向けた。

「陛下が僕のような家柄も後ろ楯もない者を宮廷伯にお取り立て下さる意味がおわかりか、女公閣下?」

「あなたは優秀な法術士よ。在学中に宮廷伯に叙任されるなんて異例のことだわ」

 愛想笑いを浮かべて言ったハルシェーニュに、セルゥクは首を振り、

「そういう意味じゃない、政治の話だ。君はもう見習いではない。君自身の浅慮が公爵家を滅ぼすことになる」

 ハルシェーニュは再び表情を強ばらせた。

「……わたしを告発するつもり?」

「告発? 何の咎(とが)で?」

 セルゥクは右眉を上げ、

「校内に奴隷を連れ込み、妖魔を憑依させようとして失敗した。君たちの法術の未熟さには虫酸が走るが」

 その場にしゃがみ、杖を持っていないほうの手で、シィリェスの額に触れる。

「……あひぃ……、……ひぃっ……」

 シィリェスは怯えきった眼でセルゥクを見上げた。

 セルゥクは冷たい眼差しのまま、しかし、怪物化した奴隷娘の額をそっと撫でて、

「教授たちにこの一件を伝えたところで、女公閣下に罰を下す勇気はないだろう」

「国王陛下は? あなたは陛下直々にお仕えする宮廷伯じゃないの?」

 ハルシェーニュが言って、乾いた笑いを上げた。

「そう、そういうこと? 意味がわかったわ。諸侯の不祥事を告発するのが、あなたたち宮廷伯の仕事」

「このような瑣事を告発しても、陛下はお取り上げにならない。たかだか奴隷一人、しかも術に失敗している」

 セルゥクはハルシェーニュに視線を向け、

「人間に妖魔を憑依させ、知恵の働く使い魔として操ろうとは浅はかな考えだと、授業で学んだ筈だが」

「妖魔の獰猛さと人間の狡猾さを併せ持った怪物になる。高度な法術がなければ従わせられない。知ってるわ」

 ハルシェーニュは口をとがらせて言う。

「これはただの実験よ。薬で言うことを聞かせて……薬が切れる前に終わらせるつもりだった」

「それが『片付ける』という意味か。やはり告発には値しないな」

 セルゥクは奴隷娘に視線を戻す。

 額を撫でられながら、シィリェスは、すがるような眼をセルゥクに向けている。

「……あぅ……、……ぇあ……」

「君に法術の技量があり、人間由来の使い魔の軍団を揃える計画だったなら別だが。立派な叛逆の嫌疑だ」

 セルゥクは再びハルシェーニュを振り返り、言った。

「もう必要がないなら、この奴隷を僕に譲り渡してもらおうか」

「どうするつもりだ? その子……いや、その奴隷を?」

 ドノリィが言って、セルゥクは眼を眇(すが)め、

「用が済んだら片付けるつもりだったのだろう? 君たちが気にかけることじゃない」

「いや……その通りだが」

 ドノリィは眼を伏せ、唇を噛む。

 セルゥクは、じっと相手の顔を見つめたまま、

「実験が成功したら使い魔として飼ってやるつもりだったとでも? いつから君にそれほどの法術の技量が?」

「……まさか、ドノリィ?」

 ハルシェーニュが咎めるような眼を向けた。ドノリィは顔を伏せたまま、

「いや、ぼくはそんなつもりじゃ……。きちんと始末はつけようと……」

「何でも女公閣下の言いなりか。君がこの場で一番の愚か者だ、ドノリィ」

 セルゥクは、ドノリィ、ネクエル、そしてハルシェーニュの顔を順に見て、言った。

「お遊びはこれまでだ。そこに転がってる木偶の坊(でくのぼう)を連れて、君たちは寮に帰れ」

 法族の少年少女たちは互いの顔色を窺っていたが、やがて、

「……このこと、誰にも言わないわよね?」

 恐る恐る訊ねたハルシェーニュに、セルゥクは冷ややかに、

「言い広められて困ることなら、初めからやらないべきだ」

「…………っ」

 ハルシェーニュは泣き出す寸前の顔になり、踵を返して貴賓室を出て行った。

「は……ハルシェーニュ!」

 ネクエルが慌てて、そのあとを追う。

 ドノリィはそれを見送って、舌打ちし、白眼を剥いて倒れたままのローファンに《浮遊》の術をかけた。

 宙に浮かび上がったローファンを引き連れ、出て行こうとするドノリィに、セルゥクは呼びかける。

「いずれ君は、その優柔不断さで身を滅ぼすことになるぞ」

 ドノリィは一瞬、足を止めてセルゥクの顔を見たが、そのまま何も言わずに出て行った。

 

 

「……さて」

 セルゥクは奴隷娘に眼を戻した。額を撫でてやりながら、

「……名前は?」

「……あぅ……、……ぉあ……」

「自分の名前も覚えてないか? 人並みの知恵が回らなくなったのでは始末するしかないが」

「……し……、……シィリェス……」

 眼に涙を浮かべ、必死の様子で言う。

「言葉が上手く喋れないのか? 僕の言うことはわかるな?」

 セルゥクの問いかけに、こくこくとシィリェスは頷いた。

「よし、シィリェス。君は未熟で愚か者の法術士に呪いをかけられ、生まれもつかない姿にされた」

「……ぇあ……」

 シィリェスの眼から涙があふれ出す。その額をセルゥクは撫で続け、

「もう君は人間には戻れず、いまのままでは使い魔の役にも立たない。下等な妖魔を無秩序に憑けられたから」

「……いゃ……あ……、……たす……け……」

「助けるさ。だから強力な妖魔を一匹、憑けてやる。それしか君を救う方法はない。理解できるか?」

「……ぁひ……」

 シィリェスはしばらくためらってから、こくりと頷く。その眼の涙を、セルゥクは指で拭って、

「新しい妖魔を憑けることで、君は人間の面影をすっかり喪うことになる。だが、怖がらなくていい」

「……ぃあ……」

 シィリェスの瞳が、怯えたように揺らぐ。その頬に、セルゥクはそっと触れて、

「必要なときには人間の姿に化けられるよう術を仕込んでやろう。妖魔が用いるから妖術だが」

「……ぁけぅ……?」

「化けるというのは、妖魔が君の正体になるからだが……まあいい。人間の姿に戻れると思っていて構わない」

「……あぃ……」

 こくこく、と、シィリェスは頷く。

「よし……」

 彼女の涙を、セルゥクはもう一度、拭ってやった。

「いまから僕が君の主人だ。君が使い魔として僕に忠節を尽くすなら、僕は君を庇護しよう」

「……ぃみなぃく……」

「……ん?」

 問い返したセルゥクに、シィリェスは首を振りながら、

「……ぃみなぃく、さま、に……」

「ディミナリク? 彼が君の主人だったのか?」

 こくこく、と、シィリェスは頷いて、セルゥクは頷き返し、

「彼のことは知っている。平民だが立派な男だ。僕が新しい主人になることを、彼なら承知してくれるだろう」

「……おぇ……、……あぃ……」

 シィリェスがあふれさせた涙を、セルゥクは拭ってやった。

「君の主人への忠節も立派だ、シィリェス。君の身に起きたことを彼に伝えよう」

「……ぁひ……」

 シィリェスは、こくりと頷く。

 セルゥクは、じっと彼女の顔を見つめて、

「これまで生きてきて、何か楽しい思い出は?」

「……ぉあ……?」

 シィリェスは眼を見開く。怪訝な表情。セルゥクは眉をしかめて首を振り、

「奴隷の身では、そんなものはないか。ならば、近いうちに開かれる学校の舞踏会に君を連れて行こう」

「……ぅあ……?」

 シィリェスは、さらに眼を丸く見開いた。セルゥクは頷いて、

「法族の舞踏会なんて見たことないだろう? 僕に言わせれば莫迦莫迦しい限りだが、見た目は豪華絢爛だ」

「……おぉえぁい……」

「ん? 踊れないと言ったのか?」

 訊き返すセルゥクに、シィリェスは眼を笑みのかたちに細め、こくこくと頷く。

 セルゥクは、そこで初めて表情を和らげた。

「僕も踊るつもりはない。ただ着飾らせた君を連れて歩いて、愚か者どもに見せつけたいだけだ」

「…………」

 シィリェスは、じっとセルゥクを見つめている。

「……どうした?」

 怪訝に眉をしかめたセルゥクに問い返され、シィリェスは慌てて首を振った。

「……ぃえ……」

 実のところ――和らいだ表情のセルゥクは、いかにも貴公子らしい美青年だとシィリェスは考えていたのだ。

 セルゥクは彼女の額を撫でた。

「よし……では、妖魔を憑ける。いま憑いてる下等な連中を追い散らせる強力な奴だ」

「……ぁい……」

「舞踏会を想像しろ。誰もが君を振り返るだろう。そして皆、訊ねるんだ。あの淑女はいったい誰かと」

 シィリェスは眼をつむり、こくりと頷く。セルゥクはその額を撫で続けながら、

「自分が誰か忘れるな、シィリェス。妖魔に心を取り込まれるな、君が妖魔を支配するんだ」

「……ぁい……、……ぉしゅぃんさま……」

 こくこく、と、シィリェスは頷く。セルゥクは立ち上がり、彼女に向けて杖を構えた。

「舞踏会だ、シィリェス。君が参加するんだ」

 そして、セルゥクは呪文を唱え、シィリェスに術を施した――

 

 

 激流の川で流されればこんな感覚だろうと、シィリェスは思った。

 全身を冷たいものでもみくちゃに洗われて、意識まで押し流されてしまいそうだった。

 シィリェスは、黒髪の法術士に命じられた通り、必死に自分に言い聞かせて激流に耐えた。

 舞踏会、舞踏会、舞踏会……

 やがて、不意に川から救い上げられたように感じた。冷たい感覚がどこかに消え去った。

 眼を開けると、セルゥクが自分を見下ろしている。

「……どうだ? 君はシィリェスか?」

 身体が軽く感じた。先ほどまで川で溺れかけていた筈なのに、妙に気分が爽快だった。

 シィリェスは起き上がろうとして――

「……ひっ!」

 小さく悲鳴を上げた。床についた自分の腕と、乳房が視界に入ったのだ。

 それらは全く人間らしいシルエットだったが、肌の色は青く、奇妙に艶のある質感だった。

 慌てて身体を起こし、自分の全身を見回す。

 まともに人間らしい姿に戻ったようなのに、どうして肌は青いのだろう?

 肩越しに背中側を見て、肩の後ろから黒い蝙蝠に似た翼が、腰からは尻尾が生えていることに気づく。

 顔はどうなってしまったのだろう? 怖々と両手で触れてみる。

「その様子だと、意識は元のシィリェスのようだな」

「……御主人様?」

 シィリェスは黒髪の法術士の顔を見上げた。

 彼がセルゥクという名であることは、先ほどのハルシェーニュたちとの会話を聞いてわかったが。

「自分の顔が気になるか。そうだな、毛の生えていない猫といったところだ」

 セルゥクの答えに、シィリェスは琥珀色に変じた瞳の縦割れの瞳孔を細める。

 両耳は頭の高い位置に移り、眼は大きく、鼻と口は小さく、セルゥクが告げた通りの猫に似た面立ち。

 その頬にセルゥクは触れて、

「このまま舞踏会には連れて行けないが、決して酷い有り様ではない。証明してみせようか?」

「え? あっ、あの……」

 戸惑うシィリェスの顎に手をかけて顔を上げさせ、セルゥクは腰をかがめて、相手の頬に口づけした。

「……ご、御主人様……」

 困惑するシィリェスを、唇を離したセルゥクは、じっと見つめて、

「君が望むなら唇に証明してもいい。でもまあ、それはまた今度にしておこう」

 セルゥクにどんな意図があるのかと、シィリェスは訝った。

 自分がまともな人間の姿だったときには、男好みのする容姿であったことはシィリェス自身、承知していた。

 その自分に体を売ることを強要したり、夜の伽を命じたりしないディミナリクを、だから尊敬していた。

 だが、セルゥクは猫に似ているらしい妖魔に変貌したあとのシィリェスに、口づけしてきた。

 妖術で人間の姿には戻れるというが――普通なら人間に戻したあとに口づけする筈だ。

 異形の姿になった彼女の、ショックを和らげるためかもしれない。

 この、滅多に笑みを見せない法術士は、実は心根からして貴公子なのだろうと、シィリェスは思った。

 もし――彼が許してくれるなら。

 奴隷だった自分に与えられた一つきりの財産を彼に差し出したいと、シィリェスは願った。

 そう、人間の姿に戻ったときに。果たしてそれを彼が好んでくれるかは、わからないが。

 でも、舞踏会に連れて行くと言ってくれたほどだから……

「シィリェス、仔猫の姿を思い浮かべろ」

 呼びかけられて、シィリェスは、はっと我に返った。

 慌てて眼をつむり、セルゥクに命じられた通りのものを想像する。

「自分の身体が、その大きさになると考えてみろ」

 シィリェスは言われた通り、心に念じた。私は猫、私は猫、私は猫……

 高いところから飛び降りたような感覚。

 眼を開けると、セルゥクの脚が眼前にあった。見上げてみると、彼の顔が随分高いところにある。

「上出来だ。僕の肩まで上って来い」

 こくりと頷き、シィリェスはセルゥクの腕に飛びついた。

 服の袖に爪を引っかけ、翼を羽ばたいてバランスをとり、軽い足どりで肩まで上った。

「よし……いい子だ」

 セルゥクに頭を撫でられて、シィリェスは仔猫さながらに眼を細めた。

 大きさも猫同様なら、妖魔になった自分もそれほど気味の悪い姿ではないだろうとシィリェスは思う。

 それに、何故だかセルゥクの肩は居心地がよかった。

「普段はこの姿で、君を連れ歩く。校内に奴隷を連れ込むのは禁止だが、使い魔を禁じる規則はない」

 そう言われてシィリェスは嬉しかった。このままずっとセルゥクから離れなくていいらしい。

「寮の僕の部屋では、元の大きさに戻ってもいい。だが、人間の姿になるのは、しばらくお預けだ」

 シィリェスは小首をかしげ、セルゥクの顔を見る。

「いまの妖魔の姿が安定するまでだ。なに、舞踏会までには人間に化ける術を仕込んでやる」

 こくこく、と、シィリェスは頷く。

 肩の上で従順にしているシィリェスを、セルゥクは何故かあきれ顔で見た。

「シィリェス、どうして返事をしない?」

「……ミャア!」

 シィリェスは猫のように鳴いて、慌てて両手(あるいは前肢)で口を押さえた。セルゥクは眉をしかめ、

「それは憑けてやった妖魔の影響か? すっかり妖魔じみてしまうのでは、人間を使い魔にする意味がないぞ」

「申しわけありません、御主人様……」

 シィリェスが頭を下げると、セルゥクはその頭を撫でてくれた。

「まあいい。いまの姿に馴染んでくれたのはよかった」

「あの……御主人様。もう一つ、猫のような真似をさせて頂いてよろしいですか?」

「何だ?」

 訊き返したセルゥクの頬を、シィリェスは、ぺろりと舐めた。

 眼を丸く見開いたセルゥクに、シィリェスは慌てて頭を下げ、

「ごめんなさい! あの……どうしてもこうしたかったんです! たぶんこれも妖魔の影響で……!」

「まあいい。僕は猫は嫌いじゃない」

 そう言ったセルゥクの頬は、ほんの少し赤みを帯びていた。

 

《終わり》


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戦略的後退

無条件降伏