
【偏愛】 第一章「幸弘」
幸弘(ゆきひろ)はスタンドの明かりだけを点けて机に向かっている。
漢字の書き取りだ。でも、きょうの宿題の分は何日も前に終わった。
いまやっているのは、あさってか、しあさってか、その先の分。
閉ざした襖の下から明かりが漏れている。
その向こうのリビングから「あの女」の声が聞こえる。
「――里穂(りほ)に買ってあげたんだけどぉ、アタシまでハマっちゃってぇ……」
携帯ゲーム機の話だろう。里穂は頼んでないのに買ってもらったと言っていた。
幸弘は前の機種が出たとき頼んだら、ひどく怒られた。
「――それがぁ、すっごい面白いの。なんてソフトだっけなぁ、ちょっと待ってぇ。……里穂ぉ!」
里穂はゲームはあまり好きじゃないと言っていた。
そんなことを言える里穂が、幸弘は嫌いだった。
「――あのゲーム、なんて名前ぇ? ……電源入れればタイトル出るでしょ? ゲーム機どこやったの?」
里穂は、よく物を失くす。そしてすぐに新しいのを買ってもらう。
幸弘が失くしたときは、めちゃくちゃ怒られて二、三日は代わりのものを買ってもらえない。
「――ううん、ごめぇん。里穂がゲーム機どこかやっちゃってぇ、いま名前わかんないけどぉ……」
長電話は「あの女」の常だ。
幸弘が風呂に入れば「シャワーの使いすぎ」、トイレに入れば「紙の無駄遣い」と言うくせに。
五年生の自分が憎悪という感情を学んだのは「あの女」のおかげだった。
仲の悪いクラスメートを嫌うのとは全く異質な気持ち。
子供が親を刺したというニュースを聞くたびに幸弘は想像する。
自分が「あの女」を刺したとすれば、どんなニュースになるだろうか?
「――なぁに、そろそろ食事の支度ぅ? 相変わらずマメだねぇ、ウチなんか里穂と……アレと三人だからぁ」
アレという言葉が自分を指すことを幸弘は知っている。
「――そう、今度おたくの旦那に相談したいと思ってぇ、弁護士でしょぉ? アレの養育のことぉ……」
自分を追い出そうと「あの女」が目論んでいることも幸弘は知っている。
それこそ、こっちが望むところだ。
だが世間体とやらを気にする「あの女」は結局、自分をここで飼い殺すだろう。
過去に何度も話題に上らせては断念してきた話なのだ。
「――わかったってばぁ、いま忙しいのねぇ、うん……また電話するぅ、じゃあねぇ……」
電話の会話が終わった。
そして、がらりと襖が開いて「あの女」が入って来た。
リビングに隣り合う六畳間を幸弘の父親は書斎にしていた。
幸弘は里穂と同じ部屋にベッドと勉強机を与えられていたが、勉強は父親の机でする習慣だった。
「おまえ、里穂のゲーム機知らない?」
「え……?」
幸弘は振り向いたが、返事をする暇(いとま)もないまま。
つかつかと近づいて来た女が、机の横に立てかけていた幸弘のランドセルをつかんで逆さに振った。
教科書、ノート、定規や縦笛が、どさどさと床に落ちる。
「何すんだよ!」
叫び、幸弘は立ち上がった。
「うるさいッ!」
突き飛ばされて、畳の上に倒れ込んだ。眼鏡が吹っ飛び、肘と膝を擦った。
女はランドセルを投げ捨て、机の引き出しを上から順に開け始めた。
「隠してるなら早く出しなさいよ。殴られたいの?」
「知らないよ!」
幸弘は叫んだ。全く心当たりがない。そもそもゲームを禁じたのは女自身だ。
余計に眼が悪くなるからという口実なので、幸弘は里穂からゲームを借りることも許されない。
「……ちっ!」
女は舌打ちすると、引き出しをそのままにして部屋を出て行きかける。
だが、その足が先ほど捨てたランドセルに触れて、思い出したように、
「これ、中にチャックが閉まるポケットついてたでしょ?」
「…………」
幸弘は答えない。横暴な女に返事をする義務などない。
「モノを隠すにはぴったりよね。学校で先生にゲームなんか見つかったら取り上げでしょ?」
女はランドセルを拾い上げて中を漁る。
そして、ふんっと鼻で笑った。
「……あるじゃないの」
「えっ……!?」
幸弘は眼を丸くした。
本当に心当たりがなかったのだ、里穂のゲーム機など。
だが、女の手には確かに携帯ゲーム機が握られていた。ランドセルは再び放り捨てられた。
「どうしたのよ、これ?」
女が薄笑いを浮かべて幸弘に近づいて来る。
幸弘は蒼ざめながら女の顔を見上げ、
「し……、知らない……」
女の手が一閃した。ゲーム機を握っているのとは逆の手だ。
頬を打たれ、幸弘はその場に倒れ込んだ。
「……ママ?」
里穂が書斎を覗き込んできた。そして「……ひっ」と息を呑み、幸弘に駆け寄る。
「お兄ちゃん!」
「どきなさい里穂! あなたのゲーム機を、そいつが盗んだのよ!」
わめく母親から兄をかばうつもりか、里穂は両手を広げて立ち、
「違うの! 里穂が貸してあげたの!」
「貸せと言って無理やり取り上げたのね! ゲーム禁止してるのに!」
「くぅっ……!」
幸弘はうずくまったまま、自分の前に立つ里穂の背を見上げた。
疫病神そのものの三歳下の妹。
ランドセルにゲーム機を入れたのも彼女だろう。当人は兄に貸してやろうという好意だったろうが。
迷惑でしかなかった。里穂が示す好意の全てが。
里穂の母親である――幸弘にとっては血の繋がらない女に、義理の息子を嬲る口実を与えるだけだから。
「どきなさい里穂、悪いお兄ちゃんは叱ってあげないと、お兄ちゃん自身のためにならないでしょう?」
急に猫撫で声になり、女が里穂に言った。
「……お兄ちゃんを、ぶたないで……」
涙を含んだ声で里穂が言い、女は「ええ」と笑みを見せる。
「もう、ぶったりしないわ。叱るだけ」
「…………」
こくんと里穂は頷き、横に退いた。
馬鹿な妹が幸弘は憎らしかった。女を信用して言いなりになって。
女が口の端を吊り上げ、いやらしい笑みで幸弘を見下ろした。
腰をかがめ、両肩に手をかけてきて、
「おまえ……どうして里穂のゲーム機を取り上げたの?」
「違うよ、里穂がお兄ちゃんに……!」
口を挟もうとした里穂を、女は振り返り、
「いまはママがお兄ちゃんに話してるのよ。里穂は向こうに行ってなさい」
「…………」
それきり里穂は言葉を呑み込んでしまう。兄に謝罪の視線だけを送り――
幸弘は眼を逸らした。妹の謝罪など受け入れるつもりはない。
そのまま女とも眼を合わせないでいると、肩をつかんだ手の爪が肌に喰い込んできた。
「ぐぅっ……!」
呻いた幸弘の眼を覗き込むように、女が顔を近づけてきて、
「ゲーム禁止はおまえのためでしょう? もっと眼を悪くして、ぶ厚いカッコ悪い眼鏡をかけたいの?」
里穂が勝手にランドセルにゲーム機を入れたんだ。
そう真実を告げたところで無駄だとわかっていた。
妹に罪を着せるつもりかと言われて余計に嬲られるだけだ。
だから黙っていると、爪が肩にさらに喰い込み、激しく身体を揺さぶられた。
「黙っていちゃ、わからないでしょう! 謝りなさい里穂に! さあっ!!」
「ぐぅっ……!」
涙がこみ上げた。だが、幸弘は声を上げては泣かなかったし、謝りもしなかった。
理不尽な暴力に黙って耐えた。ひとしきり義理の息子を苛めれば、女も満足するのだ。
そういうことが繰り返される毎日だった。
終止符が打たれたのは、その週末の土曜――
昼食のあと、女が医者へ行くと言って一人で出かけた。
里穂には「お友達と遊びに行きなさい。家に閉じ籠もってちゃダメよ」と言い置いていた。
幸弘は何も言われなかった。自分の眼にさえつかなければ義理の息子がどこで何をしようと関心がないのだ。
女が通っている医者は神経科だった。テーブルに置きっぱなしの診察券を幸弘は何度か眼にしていた。
自分が異常だという自覚は女自身にもあるのだろう。快方に向かう気配は全くないが。
幸弘も友達の家へ遊びに行こうとするのを、里穂が引き止めた。
「お兄ちゃん、おうちで一緒にゲームしようよ。ママには内緒にするから」
「おまえのゲームなんか借りない」
玄関で靴紐を結びながら幸弘は、きっぱりと言った。
ランドセルに勝手にゲーム機を入れられた一件を幸弘は許していなかった。
許せるわけもなかった。里穂に迷惑をかけられたのは、それが初めてではない。
里穂は泣きそうな顔になったが、すぐに媚びるように笑ってみせ、
「お兄ちゃんは里穂が持ってないゲームをお友達の家にやりにいくの? 里穂も一緒にやりたい。連れてって」
「嫌だよ」
幸弘は答えて、玄関のドアを開ける。
ゲーム嫌いのくせに一緒にやりたいなんて、ふざけたこと言うな。
「おまえもどこか出かけるなら、鍵かけて行けよ。俺は自分の鍵、持って行くから」
「里穂もついて行く」
「ダメだっての」
幸弘は玄関を出た。里穂が靴をつっかけてついて来た。
「外に出るなら鍵かけろよ」
そう叱りつけて、里穂が慌てて鍵を締めている間に、幸弘はエレベーターに飛び乗った。
一階に下りてマンションのエントランスを出て、自転車置き場へ回る。
ところが間の悪いことに、誰かが並んでいた自転車を倒していったらしい。
下敷きになっていた自分の自転車を引っぱり出している間に、里穂に追いつかれた。
幸弘は自転車をとばした。ときどき後ろを振り返ると、里穂がついて来ていた。
目指す友達の家まで直行すれば五分ほどだが、幸弘はわざと遠回りすることにした。
大きな公園を(近道で通り抜けもできるのに)ぐるりと半周し、踏み切りを越え、商店街を抜けた。
いつの間にか里穂の姿は見えなくなった。
幸弘は安心して友達の家を訪ね、ほかに集まっていた数人の仲間と夕方までゲームを楽しんだ。
家に帰り、玄関で靴を脱いでいると、先に帰っていた女が奥から出て来た。
「……里穂は?」
「え……?」
幸弘は眼を丸くして、
「知らないよ……、どこに遊びに行ったかなんて……」
女が幸弘に里穂の世話を任せたことはない。
里穂が半分だけ血の繋がった兄に懐いていること自体、快く思っていないのだ。
逆にいえば、幸弘が里穂の行動に責任を持つ義務はない。
自転車で里穂を振り切ったことは忘れていた。
すると、女がメモ紙を突きつけてきた。たどたどしい子供の字で何か書いてある。
「お兄ちゃんの友達の家に行くって、里穂の書き置き! おまえ一緒じゃないの?」
「えっ……」
幸弘は言葉を失った。
置いてきぼりをくらった里穂は、一度は家に帰って来たのだろう。
しかし諦めきれず、再び兄を捜しに出かけたのだ。
「……このッ、クソガキッ!!」
拳で頬を殴られた。身体が宙に浮いたように感じ、床に倒れたところを蹴りつけられた。
脇腹に入った。一瞬、息が止まり、呼吸が戻ったところで咳き込んだ。
「……げほっ! げほっ!」
「里穂に何かあったら、テメェ殺すぞッ!!」
女は言い捨て、幸弘の身体をまたいで玄関を出て行った。
幸弘はその場に倒れ伏したまま、声を殺して泣いた。
殺意だけで人間を殺せればいいのにと思った。
日が暮れてしばらくたってから、里穂が女と一緒に帰って来た。
何があったかわからないが愉しそうに笑い合っていた。
幸弘は襖を締めきった書斎の隅で膝を抱えてそれを聞いた。
膝に顔を埋めてもう一度、泣いた。
それからだいぶたって、襖が開いて里穂が入って来た。
「お兄ちゃん、ごはんだよ……」
幸弘は黙って里穂を睨み上げた。
里穂は、びくっと震えて、
「……ごめんなさい……」
つぶやくように言って書斎から逃げ出した。
やがて食卓の談笑が襖越しに聞こえて、幸弘は涙を拭った。
空腹も孤独も辛くはない。あの女への報復という当然の権利を果たせない無力さがみじめだった。
食事のあと、女が里穂に「ママは大事な電話があるからお部屋に行ってなさい」と言いつけるのが聞こえた。
それからどこかへ電話をかけて、しばらく話していたが、声を抑えているので内容はわからない。
だが「いえ……」とか「違います……」と否定語を繰り返す様子で何か交渉しているのだとは推測できた。
途中で「おかあさん」という言葉が聞こえて相手が幸弘の父方の祖母ということもわかった。
つまり「お義母(かあ)さん」だ。
最後は感謝の言葉を繰り返しながら女が電話を終え、襖を開けて幸弘の前に立った。
「おまえはババアの家へ行ってもらうことにしたから。ここから出て行ってもらうから」
幸弘は答えず、女を睨み上げる。
「……何だその眼はッ、ガキッ!!」
髪の毛をつかまれて頭を揺さぶられたが、幸弘は歯を喰いしばって耐えた。
やがて突き放すように女が手を離し、
「おまえがホントに彰弘(あきひろ)さんの子か疑わしかったけど、ババアの血を引いてるのは確かだなッ!」
そう言い捨てて、出て行った。
日曜日の昼前に祖母が訪ねて来た。会うのは去年の父親の納骨以来だった。
言葉遣いが悪くてヘビースモーカーの祖母を幸弘は好きではなかった。
ダイニングのテーブルを挟んで女と向き合った祖母は初め、女の話を黙って聞いていた。
とんとんと指でテーブルを叩いているのは、家の中は禁煙と言われて苛立っているのだろう。
幸弘は女の指示で祖母の隣に座らされた。祖母に引き取らせることは女にとって決定事項なのだ。
「──それで幸弘もあたしに懐いてくれないし、離れて暮らすほうがお互いのためと思って……」
そう言って涙ぐんでみせたところで女の熱弁に区切りがついた。
祖母は、ふんっと鼻を鳴らした。
「で、養育費はいぐら出すんだ?」
「……え?」
顔をこわばらせた女に、とんとんとテーブルを指で叩きながら祖母は、
「血の繋がらねぇ子供を厄介払いできて万々歳だべ。食費や学費ぐらい面倒見て当然だべや」
「そんなお義母さん、あたしだって女手一つで里穂を抱えて大変で……」
「そりゃオラちも一緒だ、幸弘を引ぎどっだら」
「お義母さんは働いてらっしゃるじゃないですか」
「オメェは何で働がねぇ?」
ぎろりと、祖母は女を見据えた。
「保険金やら見舞金で貯えあっがらそんな生活してられっけど、オメェ家族に甘えんの大概にしねぇか」
「あたしが誰に甘えているとおっしゃるんですか」
「死んだ亭主に甘えでる。幸弘に甘えでる。里穂を猫可愛がりすんのも結局は娘に甘えでるっでこどだべ」
「冗談じゃないわッ!」
女は眉を吊り上げた。
「まるで懐こうとしない幸弘に、あたしが何で甘えるのッ!?」
「なら幸弘の頬の痣は何だべや?」
祖母の指摘に、女は顔を引きつらせ、
「知りません。喧嘩でもしたんでしょう」
「それで医者にも連れて行かず手当てもせずか。てぇしたごじゃっぺな母親ぶりだぁ」
祖母に鼻で笑われて、女は逆上して拳でテーブルを叩いた。
「……ざけんなッ、クソババアッ!!」
「それが本性か。亭主の親に向かって上等なクチ叩くでねぇか」
祖母は冷ややかに笑い、
「それども親ども思っでねぇが? ならこっちも考えあっぞ」
立ち上がって身を乗り出し、ばしんと自分も平手でテーブルを叩いて、
「お嬢育ちがレディース上がりのオレに喧嘩売っが? 《初代闇乙闘女(やみおとめ)》ナメんでねぇッ!!」
びくっと女は身震いした。
眼を剥き、唇を震わせて恐怖に歪んだ顔で、
「きょっ……脅迫……? こんな人が彰弘さんの母親だなんて信じられない……」
「オメェが売っだ喧嘩だべ。弱ぇ者にだけ強気の根性曲がりが」
「出て行ってッ!!」
女は戸口を指差し、わめいた。
「彰弘さんとあたしの家から出て行って!」
「出で行っでやるどもさ。だどもここはオメェが追い出そうとしでる幸弘の家でもあんだ。よぉぐ覚えどけ」
祖母が幸弘の肩を叩く。
「着替え用意して玄関で待っとけ。オレもすぐ行ぐがら」
「え? あ、うん……」
女のもとに留まるという選択肢はなかった。祖母にやり込められた腹いせをされるに決まってる。
ダイニングを出て子供部屋へ行くと、里穂が二段ベッドの下の段で膝を抱えていた。
本来そこは幸弘の寝場所だったが、この家を出て行くのだ。もう関係ない。
幸弘がクロゼットからリュックを出して着替えを詰め始めると、里穂が恐る恐る声をかけてきた。
「……どこにも行かないでしょ、お兄ちゃん?」
「行くよ。ここを出て行く」
「なら里穂も一緒に行く」
「おまえは残るんだよ」
突き放すように幸弘が言うと、里穂はベッドから身を乗り出して叫ぶ。
「里穂がママに言うよ! お兄ちゃんにもっと優しくしてって!」
「言うだけ無駄だろ」
「そんなことない! ママ本当は優しいんだよ! お兄ちゃんも本当はいい子だってわかれば……!」
「あの女が優しいのは、おまえにだけだ。自分が産んだ子供だから」
幸弘は里穂を睨んだ。
「あんな女、この家に来なけりゃよかった。父さんがあんな女と再婚しなけりゃよかった」
「……お兄ちゃん……」
「ここは父さんと俺と俺を生んだ母さんの家だ。本当は『おまえたち』が出て行けばいいんだ」
蓋を閉めたリュックを肩に担いで、幸弘は部屋を出た。
里穂が泣き出したようだが振り返らなかった。
廊下で祖母と行き会った。
「準備でぎだが? 里穂にお別れ言っだが?」
「うん……」
幸弘が曖昧に頷くと、祖母は眉をしかめ、
「ちゃんと言えでねぇがら里穂が泣いでんだべ。そごで待っどげ」
子供部屋へ向かった祖母と入れ替わるように、女が廊下に出て来た。
蒼ざめた顔で、眼ばかりぎらぎらさせて幸弘を見据え、
「泥棒。泥棒猫のガキ。彰弘さんが最初からあたしと結婚していれば、おまえなんか生まれて来なかったのに」
幸弘は黙って女を睨み返した。
祖母のように効果的に反撃できないのは口惜しかったが、もう女を恐れることはない。
弱い者苛めしかできない卑怯者とわかったから。
「なんだその眼は。これまで育ててやった恩も忘れて。さすが泥棒猫の産んだガキだ。ケダモノめ」
女は口で罵るばかりで、いつものように手は出してこない。祖母を恐れているのだろう。
幸弘は無言で卑怯者を睨み続ける。
やがて祖母が戻って来て、女は顔をこわばらせてリビングへ引っ込んだ。
「アイツに何が言われだが?」
祖母に訊かれて幸弘は首を振る。
「大したことじゃない」
「そうが。オメェきょうがら毎晩、里穂に電話しでやれ。それがお兄ちゃんを赦す条件だちけ」
どうして里穂の赦しを得なければならないか疑問だが、祖母には反論できず頷いた。
「わかった……」
「それど、オメェの荷物はアイツがあどがら送るっでよ。転校の手続きもしでおぐそうだ」
「転校……になるの?」
訊き返した幸弘に祖母は大笑いした。
「あっだりめぇだ。オラちからこっちの学校までどうやっで通う気だ?」
息が煙草臭かった。毎日吸い続けて染みついた匂いだろう。
玄関を出たところで祖母が言った。
「昼メシまだだべ。駅前に回転寿司あっだろ、寄っでぐが?」
「……うん……」
本当は回転寿司は嫌いだった。いつも食べさせてもらえるのは少食の妹と同じ皿の数までだったから。
祖母は何皿まで許してくれるだろうかと考えていると、ばしんと背中を叩かれた。
「寿司は嫌いが? なら焼き肉にすんべ。金なら心配いらねぇ幸弘の奢りだ」
「えっ……?」
びっくりする幸弘の背中をもう一度叩いて、祖母は笑う。
「養育費振り込まれるまで立て替えどぐけど、アイツに払わせだ金でご馳走食えるど思うど愉快だべ?」
「……うん」
幸弘も笑った。祖母を好きになれそうだと思った。
祖母の家まで電車を乗り継いで三時間かかった。
長屋造りの公営住宅で間取りは2K。いままで住んでいたマンションより遥かに狭い。
だが家電品は(その当時で)新しいものが揃っており意外に経済事情は豊からしい。
十四インチの液晶テレビを珍しげに眺める幸弘に、祖母は笑った。
「パチンコの景品だ。家にあるモンは大概パチンコで稼いで手に入れだ。タクシー転がすより割がイイんだ」
火をつけた煙草を口にくわえ、空いた手で孫の頭を撫でる。
「六十なっだら仕事辞めでパチプロで生ぎよう思うだけっどが、幸弘いちゃそうもいがねぇな」
「俺が来たら……迷惑だった?」
「そぉだ意味でねぇ。生ぎる張り合いでぎだっつぅこどだ。彰弘はオレが一人で育でで大学まで入れたんだ」
祖母は煙草を手に持ち替え、幸弘の肩に手をかけて眼を覗き込んできた。
「幸弘もオメェ、ガキのうちはいぐら悪さしでもいいけど、最後は胸張っで生ぎられる大人になれ」
「うん……」
きっと煙草は早いうちに覚えるだろうと思いながら幸弘は頷く。
祖母は満足げに笑って、
「ほだらさっそぐ里穂に電話しでやれ。電話機はほれ、そっちの台の上だ」
言われた通りに幸弘が電話をかけると、女が出た。
「あの……、里穂と話したいんだけど……」
「泥棒と話なんかさせられませんッ!」
電話を切られてしまったことを説明すると、祖母は肩をすくめた。
「そぉだこっだど思うたけっどが。仕方ねぇ手紙だけ書いでやれ。それも届ぐがわがんねぇけどな」
幸弘は新しい生活にすぐ馴染んだ。
祖母の仕事は拘束時間が長く夜勤もあったが家に帰ったときはちゃんと孫の話を聞いてくれた。
食事は外食かコンビニ弁当中心だったが遠慮なく腹いっぱい食べられるのが嬉しかった。
転校して友達もたくさんできた。
もともと幸弘は勉強はできたしスポーツも得意で、たちまちクラスの中心的存在になった。
ただし遊ぶのに忙しくて家で勉強しなくなったので成績は次第に落ちていった。
里穂には祖母の指示で何度か手紙を出したが返事はなかった。
祖母が一度、兄と妹を会わせてやれないかと女に電話で相談したが、逆上されて終わったという。
「お兄ちゃんのいない生活にようやぐ慣れだのに余計なコトすんなとよ。はんッ!」
煙草の煙を吹き出しつつ鼻で笑い、
「里穂だってオレの孫だ。母親があんなじゃ可哀想でならねぇ」
幸弘は妹に同情しなかった。
実の母親には気に入られているのだ。それで充分じゃないか。
祖母に何も言われなくなり、幸弘は里穂に手紙を出すのをやめた。
ところが正月になって里穂から年賀状が届いた。新年の挨拶に添えて、こう書かれていた。
『おともだちのいえで はがきをかきました おにいちゃんにあいたいです』
祖母がそれを見て唸った。
「幸弘に手紙出すのアイツが禁じてんだな。仕方ねぇがら友達の家でこっそり書いたんだべ」
あの女の言いなりだと思っていた里穂が親の眼を盗む行動に出たことに幸弘も驚いた。
だからといって、どうすることもできなかったが。
返事を出したところで里穂が読む前に女が捨ててしまうだろう。
結局、幸弘は里穂に年賀状を送らなかった。
その年の夏休み、里穂が一人で祖母の家を訪ねて来た。
幸弘も、遅番の出勤前で家にいた祖母も驚いた。
「どしたがぁ? アイツ……お母さんがいいっで言ったが?」
「うん。もう里穂、三年生だもん。一人で電車くらい乗れるもん」
「……里穂」
祖母は里穂の肩に手を置き、腰をかがめてその顔を覗き込んだ。
「オメェがお兄ちゃんに会いたいっで気持ちはよぉぐわがるけっどが嘘はよぐねぇ」
「嘘じゃないよ」
「ならお母さんに電話すんぞ。里穂が無事バアちゃんちに着いだっでな」
「……ママはおうちにいないから電話できないよ」
「携帯の番号も知ってっぞ」
里穂は両手で顔を覆い泣き出した。やはり嘘だった。母親に内緒でここへ来たのだ。
祖母は孫娘の頭を撫でて宥めた。
「仕方ねぇ。一日だけでもこっち泊まれるようバアちゃんが頼んでやっがら」
そして幸弘に指示をする。
「里穂を連れて稲荷さんお参りして来い。厄介な電話になりそうだがら三十分は戻るなや」
祖母の家の近くに稲荷神社があった。
地元の人の崇敬が篤く、お社は小さいながら立派な造りだ。
泣き通しで自分から歩こうとしない里穂の手を引いて幸弘は鳥居をくぐった。
「……ごめんなさい……お兄ちゃん……おばあちゃん……」
里穂は謝り続けるが、幸弘は仏頂面で黙り込んでいる。妹の自分勝手な行動が心底迷惑だった。
手水舎の前で幸弘は妹の手を放した。
「どうすんだ? お参りする気があるなら、ちゃんと手を洗え」
こくりと里穂は頷くと、水盤の前に進み出て、作法通りに左手、右手、最後は口の順に清めた。
三年生になって里穂はだいぶ背が伸びていた。
おかっぱの黒髪は艶やかで、肌の白さと相まって日本人形のようだ。
手水を使う姿が様になっていた。泣き顔で鼻を啜りながらだが。
続いて幸弘も手と口を清めた。
それから二人で並んでお参りした。
とはいえ幸弘には神様にお願いしたいことはなかった。
強いて挙げるなら「もう妹の自分勝手に振り回されたくありません」だ。
お参りが済んで、ぶらぶらと鳥居のほうへ引き返す。
神社まで歩いて来た時間も含めて七、八分しかたっていないだろう。
このあと何処で時間を潰そうか考えていると、里穂が口を開いた。
「……この神社のことパパから聞いたよ。子供の頃に何度もお参りしたって」
「ああ……」
幸弘は頷く。
実際には父親の生前に里帰りしたときもお参りしている筈だ。里穂は幼稚園に通っていた頃だが。
「パパ、おうちでもよく神社にお参りしてたよね。お兄ちゃんと里穂も連れてってくれた」
「うん……」
「でも、ママは……」
里穂は足を止めた。
「パパが死んでお参りしなくなった。パパのお仏壇には手を合わせるけど神様は拝まない」
「……罰当たりだな」
幸弘はぶっきらぼうに言った。
里穂の前であろうが、あの女を批判することにためらいはない。
すると予想通りに里穂は自分の母親をかばった。
「仕方ないよ。だって神様はパパを守ってくれなかったから」
「そう思うなら、おまえもお参りするな!」
幸弘は声を荒らげた。罰当たりな女の血を里穂も引いているということだ。
里穂は、びくっと身を震わせて、
「違うよ里穂はそんなふうに思ってないよ、でもママは……」
「おまえの母親のことなんか知らない、聞きたくもない」
「里穂はお参りしたいんだよ、お兄ちゃんと一緒に。もうじき近所の神社で夏祭りだよ……」
じっと里穂は兄の顔を見つめた。
「お兄ちゃん……、おうちに帰って来てよ……」
幸弘は舌打ちした。
どこまで妹は自分勝手で馬鹿なのだろうかと思った。
「……俺が帰るのを、あの女が歓迎するか?」
「あの女ってママのこと? ママには里穂がちゃんと話すよ……」
「何をどうやって? いつも母親の言いなりな癖に。おまえが話してあの女が聞くもんか」
「聞いてくれるよ。ママは里穂には優しいから……里穂にはお兄ちゃんが必要だってわかれば……」
「あの女が優しいのはおまえにだけな。だからおまえは何もわかってない」
幸弘は里穂を睨みつけた。
「だいたい俺が帰りたくない。あの女のいるところに」
「どうして? ママはお兄ちゃんにとってもママなんだよ……」
「殴られて蹴られて殺すぞって言われた。それが母親のすることか? 血が繋がらないからできるんだ」
「……そんなこと……」
「ママが言う筈ないって? そう思ってるのはおまえだけだ」
「どうして……!」
里穂は両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。
「お兄ちゃんと一緒にいたいだけなのに……里穂は……!」
「俺はおまえとは一緒にいられない」
「ママがいるから嫌なら……里穂がこっちのおうちに来るよ……」
「あの女が許すわけないだろ。それとも優しいママにお願いしてみるか?」
幸弘の突き放した言葉に、里穂は答えない。
足元の石ころを蹴り、幸弘はもう一度、舌打ちした。お稲荷様の境内で罰当たりとは思ったけど。
いつまでも里穂がうずくまったままなので、幸弘は三度目の舌打ちをして声をかけた。
「立てよ。もう行くぞ」
こくんと頷き、里穂は立ち上がったが、涙を拭っているばかりでその場から動こうとしない。
幸弘はその手をつかんで引っぱった。それでようやく里穂は歩き出した。
遠回りして時間をかけて祖母の家に戻った。
祖母はテーブルに頬杖をつき、苛立たしげに煙草をふかしていた。
「話んならねぇ。いますぐ里穂を連れて帰らねぇと警察に通報するってよ。誘拐犯呼ばわりだ」
幸弘は手を引いたままの妹を見る。里穂は涙を拭っている。
祖母が言った。
「里穂、オラちに来だがっだなら先に相談してくれりゃえがったんだ。バアちゃんおまえの味方だぞ?」
うつむいたまま答えない里穂に、祖母はため息をつき、
「だどもこぉだこどになっだら、しゃあんめぇ。お母さんのところに帰ってもらうしかねぇ。幸弘、支度しろ」
「えっ……俺?」
訊き返す幸弘に、祖母は煙草の煙を吐きながら頷き、
「オメェも一緒なら大人しく帰る気なんべ。オレも会社に休みの連絡入れたからよ」
電車の中で、里穂は幸弘にずっと身体を寄せていた。
幸弘には迷惑だったが祖母の手前、邪険にも扱えない。
里穂は言葉も発しないでいたが、家の最寄駅に着いて改札を出たところで、ようやく口を開いた。
「……お兄ちゃん、お兄ちゃんが里穂のおうちにお泊まりしていって……」
「そんなの……!」
ダメだと幸弘が答えるより先に、祖母が言った。
「そぉだこどオメェのお母さんが許すわげねぇ。お兄ちゃんと会えるのも次は当分ねぇど思え」
「どうしてっ!?」
里穂は声を張り上げた。周囲の通行人が振り返る。
祖母は里穂の顔を見下ろした。眼に怒りが込められていた。
「オメェのしだこどは、そぉゆうこどだ。一番悪ぃのはお母さんだが里穂も悪ぃ」
「お兄ちゃんと一緒にいたいのがどうしていけないのっ!?」
「いげなぐねぇ。だどもそのために嘘ついだのはよぐねぇ」
「そうしなきゃお兄ちゃんに会えなかったもんっ!」
「そのおかげで来月のオメェたちのお父さんの三回忌、バアちゃんは出られなぐなったんだぞ、幸弘もな」
「え……?」
幸弘は驚いて祖母の顔を見る。
祖母は、ふんっと鼻を鳴らした。
「当分オレたちを里穂に会わせるわげいがねぇがら三回忌に出るのは遠慮しろとよ。そればかりでねぇ」
バッグを探って煙草を出したが、駅構内が禁煙であることを思い出したのか、舌打ちして煙草を戻し、
「アイツは分骨の約束も守らねぇ気だ。彰弘の身体をバラバラにできねぇと、たどこ抜かせ!」
「ぶんこつって……オレの母さんの墓に父さんの骨を移すってことだろ? それをしないって言ってるの?」
幸弘が訊ねて、祖母は頷き、
「全部じゃなく一部を移すんだどもな。アイツは彰弘を幸子(さちこ)さんと同じ墓に入れたぐねぇんだ」
「……そんなの里穂、知らないよ……」
里穂は両手で顔を覆い、再び泣き出した。
身勝手な言いぐさに幸弘は腹が立った。里穂自身がしたことの結果じゃないか。
だが祖母は優しい顔になり、里穂の前にしゃがんで頭を撫でた。
「んだな。大人の事情は里穂に関係ねぇな」
「里穂はお兄ちゃんと一緒にいたいだけだよ……里穂からお兄ちゃんを取り上げないで……」
「よしよし、バアちゃんに任せろ。時間はかかるけっどが、いつか里穂が泣がなぐで済むようにしでやっがら」
「……いつ?」
泣き濡れた眼を上げて里穂が訊ね、祖母は首を振り、
「いつどは言えねぇ。だども信用しろ。里穂のお母さんは里穂だけのお母さんだけど、バアちゃんはな」
立ち上がって里穂と幸弘、二人の頭を撫でて、
「オメェたち両方のバアちゃんなんだ。オレはずっと二人の味方だぞ。わがっだな?」
里穂は涙を拭っている。
幸弘は口をつぐんでいる。
祖母は優しい眼差しで、兄妹の頭を撫で続けた。
《終わり》
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