垢舐め


 

 照明灯が、ちらちらと明滅している。

 真夜中の公園――

 

「さあ、今夜は、この公園にしましょう」

 歌うように楽しげに言いながら、少女が、公園に入って来た。

 おかっぱの髪に、地味な銀縁めがね。セーラー服姿で、中学生のようだ。

「どうしたの? 早くいらっしゃい」

 足を止めて振り返り、手招きをする。

 公園の入口で、少女の「連れ」が、立ち止まっていた。

 コンビニで売られているような白いビニールのレインコート姿。

 雨でもないのにフードをすっぽりかぶり、うつむいているのは、顔を隠したいのだろうか。

 背格好はセーラー服の少女と同じくらい。

 コートの裾から華奢な素脚が伸び、足元は、裸足だ。

 あるいは、コートの下は何も身に着けていないのかもしれない。

「……あの……、この公園は……」

 レインコート姿の「連れ」が、言葉を発した。年若い少女の、かぼそい声。

 セーラー服の少女は、微笑みながら小首をかしげ、

「あら、知っているところ?」

「……あたしの家の、近所です……」

「まあ、そうだったの」

 セーラー服の少女は大仰に感心したそぶりで、公園を見回した。

 ブランコと、滑り台と、公衆トイレ。どこにでもあるような、小さな公園。

「じゃあ、子供の頃のあなたは、よくここで遊んだのかしら?」

「…………」

 答えないでいる「連れ」を振り返り、セーラー服の少女は、にっこりとする。

「近所の人に見つからないか心配? 大丈夫よ。こんな時間に、誰も公園に遊びには来ないわ」

「…………、でも……」

「おなかが空いてるんじゃないの? ここが嫌なら、きょうは『ご飯抜き』で帰るわよ。私だって眠いもの」

 セーラー服の少女は言うと、わざとらしく、あくびをしてみせた。

「…………」

 レインコートの「少女」――少なくとも、その声は――は、なおもためらっていたが、

「どうするの? 帰る? おなか空いたの、我慢できる?」

 セーラー服の少女に笑顔のまま迫られ、おずおずと、公園に足を踏み入れた。

 くすくすと笑って、セーラー服の少女は、

「子供の頃の話をしたのは、意地悪すぎたかしら。あなたは、もう『元のあなた』ではないのにね」

 口調は無邪気だが、残酷な言葉だった――レインコートの「少女」にとっては。

 二人の少女――ひとりは「少女らしきモノ」だが――は、狭い公園を横切り、公衆トイレの前に立った。

 トイレは入口が一ヶ所だけで、男女兼用で造られているようだ。

「さあ、コートを預るわ。おなかいっぱい『食べて』いらっしゃい」

 セーラー服の少女が言うと、コート姿の「少女」は、うつむいたまま、

「……コートを着ていっては、ダメですか……?」

「ダメよ。その格好で床を這い回ったら、コートが汚れちゃうでしょう?」

 セーラー服の少女は微笑む。

「汚れた服の人を、家に入れたくないもの。それとも、うちの外でコートを脱ぐ? 車がいっぱい通るけど」

「……いえ、それは……」

「いっそ自分の家に帰って、いまの『変わり果てた姿』を家族に見てもらう? 私は、それで構わないのよ」

「…………」

 レインコートの「少女」は観念したように、コートの前ボタンを外し始めた。

 

 

 公衆トイレに入って正面に、洗面台と、鏡があった。

 そこに映った自分自身の姿に、コートを脱いで入って来た「少女」は、

「ひっ……!」

 と、息を呑む。

 子供の頃から何度も利用したトイレなのに、鏡があることを忘れていたのだ。

 ごわごわの紅い髪。

 濡れ光った黄色い肌には、ところどころ薄茶色の斑点がある。

 とはいえ、人間の面影を、すっかり失ったわけではない。

 怯えたように揺らぐ瞳も。緊張にふくらんだ小鼻も、震えている唇も。

 華奢な体つきのわりに、つんと上向きの形のいい乳房も。

 縦長の小さな臍も、桃のように丸い裸の尻も、ほっそりした長い脚も。

 かたちだけは、全て「人間」であったときのまま。

 それでも、ぬらぬらした粘液に覆われた肌の質感は、もはや「少女」が人間ではないことを示していた。

 衣服を身に着けて肌が乾くことは苦痛であり、レインコートしか着ていなかったのは、そのためだ。

「少女」は鏡から目をそむけ、トイレの奥へ進んだ。

 ツンと鼻をつく匂いに、思わず、つばを飲み込む。

 小便器が二つと、個室が一つという小さなトイレだった。小便器はいずれも「床置き式」だ。

 床や壁も含めて、汚れが目立つということはないが、それほど清潔でもないことは漂う匂いでわかる。

 だが、その匂いを「香ばしい」ものに感じて、「少女」はもう一度、ごくりとつばを飲み込んだ。

 そんな自分がおぞましく、ぶるりと身震いし――しかし、もはや抗えなかった。

 食欲に。

「少女」は――それに似たカタチをしたものは――、片方の小便器の前で、四つんばいになった。

 節水の名のもとに洗浄水の量を抑えられている小便器は、底に黄色い垢のようなものがこびりついていた。

「少女」は、それに顔を近づけて、舌を伸ばす。

 その舌は、人間ではあり得ないほど長く伸び、れろりと、便器の垢を舐めとった。

「ん……、あふ……」

 息を荒くしながら、何度も何度も丹念に、便器の垢を舐め上げる。

 次第に便器は、白い輝きを取り戻していく。

 全裸で、公衆トイレに四つんばいになり、便器を舐める「少女」――いや。

 その浅ましい姿は、すでに「人外」のものであった。

《垢舐め》と、セーラー服の少女は「それ」を呼んだ。

 おかっぱ頭に眼鏡の、その少女こそ、いま便器を舐めている「それ」を《垢舐め》に変えた当人だった。

 彼女は、自らを《魔女》と呼んだ。

 その言葉が真実であることは、《垢舐め》自身の姿が証明していた。

「はふ……、んく……」

 舌を動かし続けながら、《垢舐め》は手を伸ばし、便器の底の目皿を取り除いた。

 その下から現れた排水口に、さらに長く伸ばした舌を、差し入れる。

 うねうねとのたうちながら、舌は蛇のように、排水管の中へ潜り込んだ。

 その内側に溜まった尿石を、舐め取ろうとしているのだ。

 尿石――尿中のリン酸塩やカルシウム塩、尿酸などが、空気に触れて変質し、堆積したものである。

 配管の内部に付着したそれは、強烈な刺激臭を発する赤茶色の塊になっている。

 それが《垢舐め》にとっては、何よりの「ご馳走」だった。

 人間の食物は受けつけない体なのだ。

「んふっ……、んふっ……、んふっ……」

 舌先ですくい取った尿石を、《垢舐め》は舌を縮めて、口に運ぶ。

 そしてまた舌を伸ばし、尿石をすくい取る。

 明日以降、この小便器の利用者は、以前より排水の流れがよくなっていることに気づくだろう。

 配管の詰まりの元凶となる尿石を、全て《垢舐め》が舐め取ってしまうからだ。

 自分が裸でいることも。

 公衆トイレの床で四つんばいになっていることも。

 口にしているものが、便器に付着した汚物であることも。

 自分が「人間」であるならば、そのような行為をするはずがないことも。

 全てを意識の外に置き、《垢舐め》は舌を動かし続けた。

 やがて――

 舌が届く限りは舐めつくし、尿石をすくえなくなって、《垢舐め》は、便器の前を離れた。

「んく……、あふぅ……」

 荒い息をして、ぺたりと横座りになる。

 もう一つの小便器も、「食欲」をそそる匂いを放っているけれど……

 子供の頃、この公園のトイレを、よく利用した。

 でも、男の人が使う小便器は、なんだか怖いものに思えて、近づけなかった。それなのに。

 いまは、その小便器に舌を這わせて、こびりついた汚物を貪り食らっている。

 

 ――どうして、あたし、こんなこと……

 

 こみ上げる感情を抑えられず、

「……ああっ!」

《垢舐め》は声を上げ、両手で顔を覆って、泣き出した。

 

 

「――どうしたの?」

 声をかけられて、《垢舐め》は、顔を上げた。

 セーラー服の少女が――《魔女》が、目の前に立っていた。

「もう、許して!」

《垢舐め》は、叫んだ。

「どうして、こんな……あたしが、あなたに何をしたって言うの!?」

「何もしていないと言いたいの?」

《魔女》は、微笑みながら聞き返す。

「あなたが純粋に無関心でいたなら許せたけど。でも、そうじゃなかったでしょう?」

「あたしは、何も……!」

「俗人のくせに、私に哀れみの目を向けたわ。学校のトイレで、私が便器に顔を押しつけられていたとき」

「…………」

《垢舐め》は目を見張る。唇が、震える。

 

 ――あたしが助けなかったから……?

 ――彼女がイジメられている現場を見たのに、黙って逃げたから、怨んでいるの……?

 

「あの四人は、調子に乗りすぎたのよ。私が《魔女》だとも知らずにね。莫迦な人たち」

 くすくす笑って、《魔女》は言った。

「机に落書きされたって、私には痛くもない。机なんて学校の備品だもの。教科書を隠されても困らない。中学の勉強はレベルが低すぎて、私には必要ない。後ろから蹴飛ばされたって、怒りはしないわ。動物がじゃれつくようなものだから。でも、この私の顔を、俗人どもの排泄物で汚れた便器に押しつけたのは、許せない」

《垢舐め》が舐め上げたばかりの小便器に、視線を向ける。

「だからお返しに、あの子たちの姿を『便器』に変えて、学校の男子トイレに設置してあげたわ」

《魔女》は、《垢舐め》に微笑みかけた。

「私をイジメる相談以外は、男の子とエッチする話しか、しないような人たちだもの。毎日、男の子たちのオチンチンを眺めて暮らせて、幸せでしょうね」

「……あたしは、どうして……?」

 目を潤ませて、たずねる《垢舐め》に、《魔女》はおどけたように目を丸くする。

「あなたも『便器』のほうがよかったかしら? せっかく美人だから、その面影を残してあげたのに」

「元に戻して!」

《垢舐め》は叫んだ。《魔女》ににじり寄り、その手をつかんで、

「お願いだから! 《魔女》のあなたを尊敬するし、何でも言うことを聞く! だから、人間に戻して……!」

「そうね。姿だけは、戻してあげようかしら」

 にっこりと微笑み、《魔女》は言った。

「人間の姿にして、もちろん制服も着せてあげて、私と一緒に学校に通ってもらおうかな」

「それじゃあ……」

 希望に表情を輝かせた《垢舐め》に、《魔女》は、笑顔のまま告げる。

「でも、《垢舐め》であることに変わりはないのよ。食事は学校のトイレでしてもらうことになるわ」

「…………、そんな……」

 言葉を失う《垢舐め》の頭を、《魔女》は愛しげに撫でた。

 愛玩動物(ペット)を慈しむように。

「さあ、便器はあと二つ残っているわ。個室のほうもあるからね。おなかいっぱい『食事』してちょうだい」

《垢舐め》は唇を震わせ、《魔女》の顔を見上げていたが――やがて。

 全てを諦めたか、食欲に屈したのか。

 再び四つんばいになると、もう一つの小便器を舐め始めた。

 

《終わり》


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戦略的後退

無条件降伏