序章

 

 

 黄金色をした金属製の球体だった。

 地球儀をかたどっているのだろうか、表面には各大陸の輪郭と、経緯線が彫り込んである。それに加えて、太平洋にあたる部分に、人の眼のかたちが彫られている。

 地球儀に描かれた眼。

 芸術として作られたとすれば、それほど優れた作品とはいえない。奇妙なデザインではあるが、強く印象に残るものではない。

 素材が純金であるとすれば、その重量分の経済価値しかないであろう。

 そして。

 それが、たとえば駐輪場に停めた自転車のカゴの中に入っていれば、誰も本物の金で作られているとは考えないだろう。

 何者かが、何らかの意図で作り出したそれは、しかし、その程度の価値しか感じられないシロモノであった。

 外見的には。

 手を触れてみるまでは――

 自分の自転車のカゴの中に、いつの間にか、そのようなものが入っていれば、誰でも手を触れてしまうだろう。

 その場に捨てていくか、他人の自転車のカゴに黙って移し替えるか、落とし物として駐輪場の管理人に預けるかは、人それぞれとしても。

 だが。

 手を触れた途端、彼あるいは彼女は、知ってしまうのだ。

 それの、真の価値を。

 それが持つ、力を――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   第一章  夏花

 

 

「ふぁ……、あ……」

 校門からバス停までの坂道を下りながら、陽祐は、あくびした。

 授業中ほとんど寝ていたのに、まだ眠い。予備校で寝るわけにはいかないけど。

「――セ・ン・パイッ!」

 肩を叩かれ、振り向いた。

 麻生夏花が微笑んでいた。陽祐に追いついて隣に並び、

「陽祐センパイ、朝も帰りも一日中、眠そうですねぇー?」

「朝なんか会ったか?」

「駅で見かけたんですよぉ。でも声をかける前にセンパイ、電車に乗っちゃうんだもん。あたしは乗り遅れて次の電車になっちゃった」

「はーん」

 陽祐は曖昧にうなずく。電車に乗ったというから地元の駅のことだろうが、陽祐にとっては、どうでもいいことだ。

 陽祐は私立高校の三年生で、麻生は二年下の後輩だった。地元が一緒で、同じ中学の出身である。

 並んで歩けば、陽祐と麻生は絵になるコンビだ。白いシャツと紺のネクタイという夏の制服が二人ともよく似合う。

 陽祐は先月の県総体を最後に引退するまでは水泳部員で、肩幅があって引き締まった体つき。端正な顔が日に焼けていないのは、学校のプールが屋内にあるからだ。

 麻生は現役の水泳部員である。セミロングの艶やかな黒髪に、かたちのいい眉と、涼しげな眼。通った鼻筋に、ぷっくりした唇。体つきはスレンダーで、きわどく丈を詰めたスカートからすらりと伸びた脚が周囲の視線を惹きつけずにおかない(陽祐はあえて眼を向けないようにしていたが)。

「おまえ、部活は?」

 陽祐はたずねた。たとえサボりでも麻生自身の競技成績が落ちるだけで知ったことではないが、ほかに話題がない。

 麻生は、くすくす笑い、

「やだなぁ、きょうはサボりじゃないのに。テスト前だから休みですよぉ。センパイもテスト勉強で眠いんじゃないんですかぁ?」

「学校のテストなんか無視だよ。こっちは受験で手一杯だ」

「そっか、受験生だから。そうでしたよねぇー……」

 麻生はふむふむとうなずくと、ちらりと上目遣いに陽祐の顔を見た。

「じ・つ・はぁ、クラスの子に、陽祐センパイを紹介しろって頼まれたんですよぉ」

「あ?」

 眉をひそめる陽祐に、麻生は、にんまりと笑い、

「可愛い子ですよ? ほら、前に売店でセンパイと会ったときに一緒にいた子ですけど、あれでセンパイに一目ぼれしちゃったみたいでぇー」

「んなの、相手してる暇ねーよ」

 陽祐は渋い顔をした。麻生は笑顔のままで、

「そうでしょうけど、いまフリーかどうかだけ確かめてほしいって言われたんですよぉ」「聞いても答えなかったと言っておけ」

「うーん、そうですかぁ」

 麻生は肩をすくめる芝居じみた仕草をした。

「彼女、センパイの趣味とか好きな歌手は誰かとか、しつこく聞いてくるんですよぉ。あたしも中学のとき、美沙に同じことしたから文句言えないですけどぉ」

「はーん」

 美沙は陽祐の妹で、麻生とは中学の同級生だった。いまは女子高に通っている。

 麻生は、「ふふっ」と微笑んだ。

「でも、元カノのあたしにそんなこと聞くなんて、遠慮ないですよねぇー?」

「…………」

 陽祐は仏頂面のまま答えない。

 坂の下の停留所にバスが着くのが見えた。並んでいた生徒たちが、乗り込み始める。

「……俺、予備校急ぐけど、おまえは?」

 たずねる陽祐に、麻生は微笑み、

「どうぞ、行っちゃってください」

「わりーな」

 陽祐は駆け出した。

 ぎりぎりでバスに乗り込み、吊り革につかまって窓の外を見ると、麻生がこちらに手を振っていた。

 だが、すぐにバスは角を曲がり、麻生の姿は見えなくなった。

 

 

 陽祐が麻生とつき合い始めたのは、二年前の夏だった。中学の水泳部の合宿に、OBとしてジュースの差し入れを持って行ったことがきっかけである。

 公立中学だから合宿といっても、学校に貸布団で寝泊まりするだけで、練習場所はいつもと同じプールだった。

 陽祐が着いたとき、後輩たちは練習中で、体調不良と称する(本当はサボりだったかもしれない)麻生だけがプールサイドで見学していたので、皆がプールから上がる休憩時間まで雑談した。

 貸布団は固くて最低だとか、食事当番はみんなカレーしか作らないとか、合宿についてのとりとめもない話題から唐突に、

「あたし、携帯買ってもらったんですよぉ」

 誰かに自慢したくて仕方なかったのだろう。麻生がジャージのポケットから携帯を出して、陽祐に見せた。

「こんなところに持って来て、プールに落とさねーか?」

 陽祐が言うと、

「落とさないですよぉ。肌身離さず持ってますから」

 ぎゅっと携帯を胸に抱きしめて、悪戯っぽく笑ってみせる。

 どきりとさせられた。可愛かった。

 中学一年の頃は小学生そのままにしか見えなかった麻生は、大人びた美人に成長していた。顔立ちが以前と違って見えたし、背丈もすらりと伸びていた。

 同い年のはずの美沙が遥かに子供に思えた。携帯を欲しがることもなく友達との交換日記で満足しているような精神的な面も含めて。

「でも、友達で持ってる子、あんまりいなくて。電話帳が少なくて可哀想でしょ?」

 麻生は慣れた手つきで携帯を操作して、電話帳のリストを陽祐に見せた。確かに、自宅と両親の携帯を含めて八件だけだ。

 当然、美沙の名前はない。

「センパイの携帯の番号とメルアド、教えてくださいよぉ」

「そっちにメールするよ。アドレスは?」

 陽祐は自分の携帯を出して、言われたアドレスにメールを送った。麻生の携帯番号も教えてもらって、電話帳に登録した。

 とはいえ、自分から麻生に連絡することはないだろうと思った。二学年下の後輩と共通の話題が、それほどあるわけではない。

 麻生にとっても陽祐は、合宿の機会でもなければ顔を合わせることのない卒業生の一人でしかないだろう。

 ところが、その夜。

 麻生から、合宿が終わったらもう一度会えませんかとメールが届いた。

 そして数日後に中学校の近くのファミレスで会って、陽祐が卒業する前から好きだったと告白された。

 陽祐は、それまでも何度か女の子から告白を受けたことはあったが、部活や高校受験で忙しいからと断ってきた。

 半分は事実だったけど、真剣につき合いたいと思う相手もいなかったのだ。

 麻生から告白されるまでは。

 陽祐は照れ隠しに素っ気ない態度を装いながら、麻生とつき合うことを承知した。

 最初にメールをもらった時点で、こういうことになるだろうと心構えはできていた。

 

 

 すぐにお盆に入ったのは、つき合い始めたばかりの二人にとって幸いだった。陽祐も麻生も、部活の練習が一週間の休みになった。

 陽祐は家族で父方の実家へ帰省する予定だったが、水泳部の自主練習に参加すると称して自宅に残ることにした。麻生は家族で出かける予定はないと言った。

 中学生で小遣いの乏しい麻生と、部活があるのでアルバイトはできず同様に金欠気味の陽祐が、二人で行けるデート場所は限られていた。

 隣町のショッピングモールに自転車で出かけたり、図書館の子供向けの映画上映会に潜り込んだり、料金格安の市民体育館で卓球やバドミントンをして過ごした。

 子供じみているけど、楽しかった。

 お盆休みの三日目の夜から陽祐の家族は帰省した。父親がその日まで仕事だった。

 四日目は朝から二人で遊園地のプールへ出かけた。麻生は「友達と」プールへ行くことにして、親から臨時のお小遣いをせしめていたから、陽祐は自分の電車賃と入園料だけ工面すればよかった。「友達」が二歳年上の少年であることを知っても、麻生の親が小遣いをくれたかどうかはわからない。

 麻生の水着は競泳用に近いハイレッグカットの紺色のワンピースだった。

「いつもと一緒みたいで、つまらないでしょ?」

 そう言って照れ笑いする麻生に、

「いや……、悪くねーよ」

 自分でも恥ずかしくなるような答えを、陽祐は返した。耳が熱くなっていた。

 実際は悪くないどころではなかった。すらりと手足が長い麻生にはよく似合っていた。合宿で会ったときはジャージだったから、麻生の水着姿を見るのは卒業以来で初めてだった。眼のやり場に困るので、彼女の顔だけ見るようにしたが、ポニーテールにした髪も似合いすぎて眩しいくらいだった。

 陽祐の困惑に気づいていないのか、麻生は邪気のない笑みで、

「ホントはビキニを着たかったけど、おなかだけ焼けてないのカッコ悪いから、やめといたの」

 おなかが白くて手足が黒いパンダみたいなビキニ姿を想像し、陽祐も笑った。

「水泳部の宿命だな」

 その日は思う存分、遊ぶつもりだったけど、園内のレストランで遅めの昼ごはんを食べているうちに天気が崩れて、ごろごろと雷の音が聞こえ始めた。

「きょうは切り上げて、盆休みの最後の日にまた来ようぜ。入園料おごるから」

 陽祐は両親が不在中の食費として一日当たり二千円を支給されていた。今晩から毎食、コンビニの一番安いおにぎり二個で我慢して、不足分は貯金を下ろせばいいだろう。

 すると麻生は、にっこりとして、

「じゃあ、このあとは、陽祐の家に寄らせてもらってもいい?」

 断る理由はなかった。陽祐が家に女の子を招くのは、小学三年生のときの誕生日会以来だった。

 陽祐の家は一戸建てで、小さいながらも庭と車庫付きだった。家族が車で帰省中なので車庫は空っぽだ。マンション暮らしだという麻生は、庭があることを羨ましがった。

 陽祐は麻生を居間に通して、帰りにコンビニで買い込んだジュースや菓子を飲み食いしながら、おしゃべりした。

 きょうの天気のことや、留守にしている陽祐の家族のこと。

 父親は家電メーカーの販売子会社の営業課長で、毎晩夜中の零時を過ぎなければ帰らないほど残業続きだ。

 母親は専業主婦で、最近体重を気にしてフィットネスに通い始めたが、一番いいのは毎晩のビールをやめることだと家族はみんな思っている。

「美沙とは、同じクラスだっけ?」

 陽祐がたずねると、麻生は苦笑いして、

「去年も今年も一緒だけど、あんまり話したことなくて。クラスの中で、グループがあるでしょ、運動部の子とか文化系の子とか?」

「グループが違うってことか。そんな気はしてたけど……」

 話が途切れたところで、陽祐は言った。

「……ついでだから俺の部屋、見てみる?」

 きっと麻生は家に来たいと言った時点で、それを望んでいただろう。そう考えて、自分から申し出たのだ。

 陽祐は麻生を二階に案内した。自室のドアの前で足を止めて、

「隣が美沙の部屋だけど、そっちは見てもしょうがないよな」

「うん、なんだか悪いし……」

 麻生は苦笑いでうなずく。

 ベッドの上に脱ぎ捨てていたパジャマをどかせば、陽祐の部屋は見られる状態だった。「へぇーっ?」

 麻生は好奇心いっぱいの顔で、室内を見回した。

 少年漫画の単行本を中心に、歴史小説の文庫もいくらか並ぶ本棚。

 机の上には高校の教科書と時計とCDプレイヤーと、CDソフトが何枚か。ラジオなどで聴いて気に入った曲を買うのでジャンルはバラバラだ。

「……夏花」

 本棚に顔を近づけていた麻生の手をつかみ、陽祐は、年下の恋人を自分のほうに向かせて、抱きしめた。

 麻生は一瞬、身を固くしたが、すぐに力を抜いて、陽祐の背中に手を回した。

 そのまま、しばらく抱き合った。

「……陽祐」

 麻生が、口を開いた。

「あたしの胸、すごいドキドキしてるの、伝わってる?」

「ああ」

 陽祐はうなずく。

 麻生は陽祐の手をとると、自分の胸に導き、微笑んだ。

「じかに触って、確かめて……」

 麻生とのキスは、オレンジジュースの味がした。

 水着の跡の肌の白さは鮮烈だった。

 

 

 盆休みの五日目と六日目は、二人で陽祐の家で過ごした。コンビニで買った弁当や菓子を食べながら居間でテレビゲームをして、飽きたら陽祐の部屋へ行き、抱き合った。

 六日目の夜に陽祐の家族が帰って来た。七日目は約束通り、陽祐は麻生を再び遊園地のプールへ連れて行った。その日は快晴で一日中、遊んだ。

 盆休みが明けたあとは夏休みの終わりまで、陽祐は日曜日を除いて毎日、水泳部の練習があった。麻生も同じペースで練習があったはずだが、合間にサボらなかったかどうかはわからない。

 会えない日はメールや電話で連絡し合い、日曜日に必ず会うことを約束した。

 地元の盆踊りは土曜日だったが、夜から会った。麻生は紺地に花火柄の浴衣姿だった。「上のお姉ちゃんのお下がりだけど、昔、おばあちゃんが仕立ててくれたの。ちゃんとした染物の浴衣って、なかなかないんだよ?」

 はにかんだ笑みの麻生に、陽祐は、

「……可愛いよ」

 言った自分が恥ずかしかったが、

「ホント?」

 麻生が笑顔を輝かせたのを見れば、自分の赤恥など大したことではないと思えた。

 夏休みの残りの日曜は二回あって、一回は隣町の公営プールへ行った。地元のプールに行かなかったのは、麻生が友達と鉢合わせるのを嫌がったからだ。

 麻生の泳ぎは惚れ惚れするほど綺麗だった。小学生時代に有名スイミングクラブの強化選手コースに所属していたのは伊達ではないと、あらためて感心した。

 最後の日曜日は、これが三度目となる遊園地のプールへ出かけた。帰りに夜の中学校に忍び込み、体育倉庫の裏で愛し合った。そこが在校生や卒業生の間で知られた裏のデートスポットだということは、陽祐も先輩から聞いて知っていた。

 二学期に入ると、陽祐は日曜日も練習になった。代わりに水曜日が休みになったので、放課後に麻生と会い、ハンバーガー屋で飲み物だけ飲みながらおしゃべりして過ごした。中学の水泳部の練習も水曜定休だったかどうかは考えないことにした。ときにはカラオケボックスへ行き、歌はほとんど歌わずにお互いを求めた。

 九月の末に県内の高校の新人戦があった。陽祐には事前に何も告げず、麻生が会場に応援に現れた。陽祐は麻生を先輩や同級生に「中学の水泳部の後輩です」と紹介するハメになった。麻生は如才なく皆に挨拶していたが、ただの中学の後輩が一人で高校生の大会を応援に来るはずがないことは部員みんなにバレただろう。

 百メートル自由形の予選最終組に出場した陽祐は、決勝に出場する上位九人には、ぎりぎりで残れないタイムだった。

「でも、自己ベストだよね? 精いっぱい、頑張ったよ」

 ねぎらいの言葉をかけてくれた麻生に、陽祐は、つい愚痴をこぼした。

「中学の頃から毎回ぎりぎりで決勝に出られないのは、練習が足りねーんだろーな。誰かみたいに才能がありゃ、もっと効率的に練習して通用するんだろーけどさ……」

「それって、あたしのこと言ってんの?」

 麻生は口をとがらせた。

「あたしだってクラブにいた頃は、むちゃくちゃ練習したんだよ? 水泳が嫌いになりかけてクラブをやめて、いまはこんな風だけど」

「わりぃ。本気で言ったわけじゃねーんだ」

 気まずい顔で謝る陽祐に、

「まっ、いいけどぉ。あたしがまともに練習してないのは、事実だしぃ」

 麻生はすぐに機嫌を治したのか悪戯っぽく笑ってみせ、帰り際には、

「怒ったまま帰ったと思われるの、嫌だから」

 と、ほかの部員が見ていない隙にキスしてくれた。

 麻生が帰ったあとで、陽祐は部長の先輩に問い詰められた。

「彼女、種目とベストタイムは?」

「種目は個人メドレーで、いまのベストは知らないですけど、一年のときは『二個メ』で県の決勝に残ってました。結果は五位でしたけど……」

「上等じゃねえか。来年、受験だろ? うちの高校に連れて来いよな」

 よく練習をサボるようになったいまではタイムが落ちているはずだったが、そこまで部長に説明しても仕方ないだろう。陽祐は「わかりました」と答えておいた。

 十月末のスプリント選手権も陽祐の成績はいまひとつだったが、ともかく年内の大会は終了した。年明けまでは日曜日も休みになった。

 麻生と一緒にいられる時間が増えた。貧乏デートなのは相変わらずだった。

 

 

 クリスマスプレゼントとして、陽祐は、ピンクゴールドのファッションリング九千八百円也を大奮発で用意した。その代金は小遣いを切り詰めて工面した。

 ところが、麻生はイヴの夜は会えないと言いだした。

「ごめんなさい。おばあちゃんの家で、家族でパーティーやることになって……」

 二十五日なら会えるというので、仕方ないなと陽祐は納得した。一日遅れの金欠サンタからのプレゼントに、麻生は満面の笑みで陽祐に抱きついてキスしてくれた。

 麻生からのプレゼントは、彼女が好きだというブランドの革製のキーホルダーだった。なけなしの小遣いで買ったのだろう。陽祐も同じようにキスを返した。キーホルダーはその日から使うことにした。

 年末年始は陽祐の練習は休みになったが、麻生は家族でスキーに出かけると言い、冬休みの最後の一日しか会えなかった。

 地元の神社の前で待ち合わせて、数日遅れの初詣をしてから遊びに行くことになった。麻生は時間通りに現れて、二人で手をつないで鳥居をくぐった。

 麻生の指のリングに触れた。麻生は微笑み、

「ちゃんとしてるよ、ほらっ?」

 クリスマスプレゼントのリングをかざしてみせた。

 ところが、その彼女の耳に、小さなピアスが光っているのに気づいた。

「あれ? 耳……」

「あ、ピアス、開けちゃった」

 麻生は悪戯っぽく笑った。

「でも、きょうで終わりだけど。学校には、つけて行けないし」

「はーん……」

 曖昧にうなずいている陽祐に、麻生は小首をかしげて、

「あんまり、似合ってない?」

「そんなことは、ねーけど……」

「安物だからね、自分で買った。陽祐のリングには、全然かなわないって」

 麻生は笑顔で言うと、陽祐の腕に抱きついた。

 本当は、陽祐としては、冬休みの間にピアスを開けに行く暇があったのなら、もう少し自分とも会えたのではないかと思ったのだ。

 神様の前で喧嘩しても仕方ないので、その思いは胸の奥にしまうことにした。

 三学期に入って、日曜日の練習が復活した。二月の短水路選手権に向けてである。水曜日のデートはそれまで通りだった。

 バレンタイン当日は陽祐の練習が終わったあとに会った。クリスマスプレゼントと同じブランドのマフラーをプレゼントされて、驚いた。

「クリスマスのお礼のつもりで、貯めておいたお年玉で買ったの。ホワイトデーは、気にしないでね、ホントに」

 微笑む麻生が愛しかった。マフラーは学校へして行くことにした。

 ホワイトデーはモノよりもイベントで麻生を喜ばせようと計画した。夏にプールに出かけた遊園地で、ちょうどいい企画があった。ミラーハウスの迷路で制限時間内にゴールすれば、ドイツ製のテディベアがもらえるのだ。時間をオーバーしても、参加賞としてミニチュアのベアがプレゼントされるという。

 だが、ホワイトデー当日は都合が悪いと、麻生に断られた。

「家族で用事があって……。うち、父親が単身赴任だって言ったっけ? その父親が帰って来るから、それで……」

 そう言われたら、納得するしかないだろう。代わりに麻生が好きなブランドのニットの手袋を、ホワイトデー前日に贈ることにした。新作だから、まだ持っていないだろうと考えたのだ。実際、麻生は喜んでくれた。

 短水路選手権はそれなりの成績で終わり、再び日曜日が休みになったが、麻生とは二回に一回しか会えなかった。

「あたし来年、高校受験だから、親が塾に行かせようとして、それを避けるには家で勉強のフリだけでもしなくちゃいけなくて……ホント、ごめんなさい」

 それも仕方ないのだろう。会えない日には、水泳部の先輩に紹介してもらった引っ越し屋の日払いバイトで稼ぐことにした。デートの日の軍資金にするためだ。

 二週間ある春休みの間、陽祐は練習が休みになったが、麻生とは三日間しか会えなかった。それでも隣町の桜の名所に二人で出かけたことは、いい思い出になると思った。

 麻生は春休み中は小さなクロスのピアスをしていた。冬休みにつけていたものよりも、高そうに見えた。

 

 

 二人の仲は、終わりに近づいていた。

 陽祐がそれに気づかなかったので――あるいは、気づかないふりをしていたので、夏までは辛うじて続いたのだけど。

 

 

 新学期、陽祐は高校二年生になった。麻生は中学三年生。

 陽祐の日曜日の練習が復活した。それはゴールデンウイークも休まず、七月末の地方大会まで続く予定だった。陽祐の出番は六月の県総体で終わるはずだったが、練習には参加しなければならない。

 インターハイに出られる部員がいれば、お盆まで強化練習を続けるプランもあると先輩たちは言ったが、その年の新入部員にもそれほどの逸材はいなかった。

 陽祐は麻生と水曜日も会えないことが多くなった。メールだけのやりとりが続いた。

 県総体に、麻生は応援に来なかった。去年の新人戦には中学時代の後輩が来ていたことを、女子の先輩の一人が覚えていた。

「可愛い彼女が来てくれなくて残念ね。でも、今年は受験生か。仕方ないよね」

 陽祐は苦笑いで応えるしかなかった。成績は相変わらずで、百メートルも二百メートルも決勝に届かなかった。

 地方大会は隣の県で行なわれて、陽祐は「応援」兼「荷物持ち」として参加した。先輩の一人が百メートルバタフライで惜しいところでインハイ出場を逃した。

 そして、夏休みになった。

 

 

 中学校の水泳部から暑中見舞いを兼ねて、合宿開催の案内が葉書で届いた。

 陽祐は麻生に電話して、差し入れを持って行かないかと提案した。三年生の麻生は部を引退していた。麻生の都合のいい日を選び、二人で出かけた。差し入れはジュースのほかに、カレー用の肉を買い込んで用意した。

 陽祐と麻生の仲は知れ渡っていたので、後輩たちは二人を「デートですか?」と冷やかしながらも歓迎してくれた。

 練習に立ち会っていた顧問の教師も、苦笑いしながら陽祐に「麻生は受験生だから、少し配慮してやれよ」と耳打ちした。

 言われなくてもそのつもりだった。これまでも、麻生が無理して陽祐と都合を合わせているように感じていたのだ。

 帰りに寄ったファミレスで、陽祐は麻生に、受験勉強の支障になるといけないので今後は会う回数を減らそうと提案した。

 麻生は「いいけど」とあっさり承知した。「あたしもそれがいいと思ってた」

 しばらく会話が途切れたあと、陽祐は麻生にどこの高校を受けるつもりかたずねた。

 麻生は県立を含めていくつか名前を挙げ、それぞれの難易度について話が続いたが、

「おまえって美人だし、どこの高校に行ってもモテるんだろうな」

 陽祐が冗談めかして言うと、麻生は眼を伏せて、しばらく押し黙り、

「……陽祐こそ、その気になれば、相手はいくらでもいるんじゃないの? あたしに遠慮しないで、ほかの人とつき合ってくれていいのに」

 冗談を言っている顔ではなかった。

 陽祐は、ため息をついた。

「おまえは、俺のほかにつき合ってる奴いるの?」

「……ええ」

 麻生は認めた。

「そっか」

 陽祐は窓に視線を向ける。

 人と車が外を通り過ぎていく。麻生は口をつぐんでいる。

 ききたいことは、いくつもあった。

 いつからか。どういうきっかけか。相手はどんな奴か。自分との関係はどう思っていたのか。何も言わなければ、ずるずると、いまの関係を続けるつもりだったのか。

 だが結局、陽祐は、

「そろそろ出るか?」

 そう言っただけだった。麻生は黙ってうなずいた。

 店を出たところで、陽祐は麻生に、当分連絡しないけど受験は頑張れと声をかけた。麻生は眼を伏せたまま「陽祐も、元気でね」と答えた。そこからは別々に帰った。

 それきり陽祐から麻生に連絡することはなかった。

 キーホルダーは机の引き出しの奥にしまった。去年のマフラーは、もう押入れから出すことはないだろうと思った。

 

 

 二学期に入って、それまで断ってきたクラスメートや部の仲間からの合コンの誘いを、陽祐は受けるようになった。

 他校の女生徒の何人かと陽祐はつき合ったが、長続きしなかった。水曜日の放課後しか会えない関係では仕方ないだろうと思ったが、麻生とつき合っていた頃ほど真剣になれない自分にも気づいていた。

 高校の同級生や後輩からの告白は断り続けた。中には好みのタイプもいたけど、学校で毎日、顔を合わせるのが面倒だった。他校生なら都合のいいときだけ会えばいいし、別れたあとは顔を見ないで済む。

 そんな話を合コン仲間にしたら、つまりセフレが欲しいだけかとあきれられた。

 そうかもしれないと陽祐自身も思った。その程度の関係なら、相手も自分も、ほかに何人とつき合っていようが気にすることもない。

 クリスマスに麻生から『メリー・クリスマス!』と一行だけのメールが届いた。陽祐も同じ文面で返信したあと、届いたメールは削除した。

 正月には年賀状が届いたが、父方の祖父母の家に家族で出かけていた陽祐がそれに気づいたのは自宅に戻った一月五日のことで、返事は出さなかった。

 そして三月になり、麻生から再びメールで、陽祐と同じ高校に入ることになったと知らせてきた。陽祐は「合格おめでとう」と返信した。

 ほかに文面が思い浮かばなかった。

 

 

 四月の入学式当日。

 その日は水泳部の練習はなく、入部希望者の受付のために部員たちは部室で待機していた。新入生が現れたときは、あとから部室を訪ねて来るほかの新入生を逃がさないためのエサとして、できるだけ長く部室に留めておく計画だった。上級生ばかりのところに入って来るよりも、ほかに新入生がいたほうが安心できるだろうという目論みだ。飲み放題・食べ放題のジュースとお菓子は、現役部員が金を出し合って用意した。

 式の終了後、真っ先に部室に現れたのは、麻生だった。入部希望を告げる彼女を見て、陽祐と同じ三年の部員たちが、二年前に新人戦の会場に現れた中学生だと思い出した。

 合コンで出会った他校生とつき合っては別れてを繰り返している陽祐が、後輩の彼女とも当然に別れているであろうことは、彼らも想像ついたろう。

「おい、陽祐、あの子……?」

 小声でたずねる同級生に、陽祐は仏頂面でうなずく。

「ああ。俺の中学の後輩」

 気まずい様子で押し黙っている三年生に代わり、麻生に話しかけるのは、事情を知らない二年生たちだった。

「そっかー、陽祐先輩と同じ中学かー」

「種目は個人メドレー? ならメドレーリレーに『バッタ』で出てもらうかもしれない。女子の『バッタ』の適任者がいないのよ」

 麻生はにこにこしながら、如才なく受け答えしていた。

 陽祐はトイレへ行くと周りの仲間に告げて、席を立った。

 麻生があとからついて来て、部室棟から校舎への渡り廊下で声をかけられた。

「……陽祐センパイ」

 振り向いた陽祐に、麻生は、ぺこりと頭を下げた。

「先に謝っておきます。あたし、入学式のときクラスの子たちに、この学校の水泳部にいるセンパイと昔、つき合ってたって話しちゃいました。名前は出してないですけど、そのうち、陽祐センパイのことだとわかっちゃうと思います」

「…………」

 陽祐は黙って麻生を見た。

 殴ってやろうかと思った。どこまで人をナメているのか。

 だが、いまさら殴っても仕方なかった。去年の夏、ほかの男とつき合っていると打ち明けられたときでさえ、何も言わなかったのに。

 虚勢だな、と思った。

 麻生の前で、感情をぶちまけたくなかった。この世界におまえ一人しか女がいないわけじゃないという顔をしていたかった。

「……おまえ、なんでうちの高校に来たの?」

 陽祐は、それだけを言った。

 麻生は顔を上げて、陽祐の心の中など素知らぬように微笑んだ。

「県立も受かったんですけど、こっちのほうがプールが屋内にあって、設備がいいし」

「うちの水泳部はうるさくないから、中学のときの調子でサボっても文句は言われねーだろうけど。ハメは外しすぎないようにしとけ」

 陽祐は言って、背を向けた。

「はいっ、センパイッ!」

 麻生は元気のいい返事を寄越した。

 

 

 

 

 

 

   第二章  陽祐

 

 

 陽祐が予備校から家に帰り着いたのは夜の九時半過ぎだった。

 ドアの鍵を開けて玄関に入る。

「たでーまー」

「おかえりー」

 奥から美沙の声がして、パタパタとスリッパの音を立てて駆けて来た。

「ネギは?」

「え?」

 通学靴を脱ぎながら陽祐はきき返す。

 何故だかエプロン姿の美沙は、腰に手を当てて口をとがらせ、

「メールしたじゃない。買って来てって」

「わりー。読んでねーよ。オフクロは?」

 たずねながらスリッパを履く。美沙がエプロンなど着けて主婦の真似をしているのは、母親が風邪でもひいたのかと思ったのだが。

「まだ帰ってない」

「まだ? どこか出かけてんの?」

 美沙の横を抜けて居間へ向かう。美沙はあとを追って来て、

「なに言ってんの。クラス会でしょ。きのうも今朝もママが言ってたじゃない」

「そうだったか?」

「だから晩ごはんは美沙が作るって。もう、お兄ちゃん、いつも人の話を聞いてない」

 ふくれ面をする美沙に、陽祐は気まずく口をつぐむ。

 美沙は陽祐から見ても、よくできた妹だった。家の手伝いは当然のようにやるし、学校の成績も優秀だ。

 おまけに見映えも悪くなかった。生まれつき栗色のふわふわした髪に、くりくりと表情豊かな眼に、人形みたいに整った小作りな鼻と口。

 中学時代はよくモテて、複数の男子から告白されたが全て断っていたとは、麻生からの情報だった。

「美沙って、男嫌いじゃないかと思って」

 麻生がそう言ったのは陽祐と別れる前のことだったが、その後、美沙が女子校ばかり受験したのを見ると、麻生の分析も当たっていたのではないかと思えてくる。

 兄としては、美沙が男を見る眼を養わないまま成長して、将来くだらない野郎に引っかかるほうが心配だけど。女子高でも合コンなど男と出会うイベントはあるだろうから、少しは経験を積んでもらいたい。

 居間にはソファにテレビ、パソコン一式、それにステレオと父親のジャズCDのコレクションを収めたオーディオラックがあった。ダイニングキッチンとは続き部屋で、陽祐はソファに通学鞄を放り投げてダイニングへ向かう。

 テーブルに夕食が並んでいるのかと思ったら、箸しか用意されていなかった。

「冷蔵庫に冷しゃぶサラダとナスのマリネが入ってるから出して。お皿二つに分けてあって、一つはパパの分だから」

 美沙が種明かしのように言いながら、キッチンに立つ。

「いまお素麺、茹でるから。ネギがないから薬味は生姜だけで我慢してね。下ろして冷蔵庫に入ってる」

「ああ……」

 言われた通り、冷蔵庫を開けると、きちんと皿に盛りつけてラップをかけられた料理が二人前、作り置いてあった。見た目は母親の料理と遜色ない。

 美沙が水を張った鍋を火にかけて、振り向き、

「あと麦茶も冷やしてあるけど、それとも温かいお茶がいい?」

「とりあえず、ビールにするわ」

 陽祐が缶ビールを冷蔵庫から引っぱり出すと、美沙は眉を吊り上げた。

「ばか、なに言ってんの。ちょっとやめて」

「いいじゃん。オフクロもオヤジもいねーんだから、飲ませろよ」

「だめ。絶対だめ。飲みたいならごはんのあと、美沙が寝てから一人で飲んで」

「ほんと優等生だな、おまえ。クラス委員長向きだよ。来年こそ立候補しろ」

「ほんと頭にくる。お兄ちゃんには、二度とごはん作ってあげない」

「じゃあ、これが最後の晩餐か。せいぜい味わって食うとするか」

 陽祐はビールを冷蔵庫に戻して、自分の分の料理をテーブルに並べた。

「……まったく、お兄ちゃんってば、悪い冗談ばっかり」

 美沙はくすくす笑いだす。冗談だと思って機嫌を治してくれたのならそれでいい。ビールを出したのは半分本気だったけど。

 素麺が茹で上がる前に、陽祐は冷しゃぶサラダとナスのマリネから食べ始めた。どちらの味も母親と遜色なかった。やがて出てきた素麺の茹で具合も問題なしだ。美沙は父親の分も一緒に茹でて水にさらしてから、ざるに移しラップをかけて冷蔵庫にしまった。

 食後は皿洗いをしようと陽祐は申し出たが、それより風呂に入るよう勧められた。

「このあとも勉強するんでしょ、お兄ちゃん?」

 そう言われると、やらざるを得ない気分になる。きょうは眠いから自宅学習はナシにしようと思ったのだけど。

 

 

 二階の自室で勉強しているうちに、母親が帰って来たらしい。玄関まで迎えに出た美沙と話す声が聞こえてきた。十一時過ぎのことだ。

 やがて、零時を回って父親が帰宅した。美沙はまだ起きていたようで、母親と三人で話す声がした。

 陽祐は机に広げていた勉強道具を片づけ、ダイニングへ降りていった。

 父親と母親がテーブルについてビールを飲んでいた。母親は風呂を済ませたらしくパジャマ姿で、父親は背広の上着だけ脱いでいた。

 キッチンで素麺を茹でていた美沙が、陽祐に気づいて振り返り、

「お兄ちゃんも、お素麺食べる? ママが夜食にするって」

「素麺はいいや」

 陽祐は食器棚からグラスを出して、テーブルについた。

 父親にグラスを突き出して、

「俺も、いい?」

「まあ」

 クラス会帰りでテンションが上がっているらしい母親は、おどけて眼を丸くした。

「オヤジと酒を酌み交わそうなんて、一年早いぞ」

 言いながらも父親はまんざらでもない顔で、陽祐のグラスにビールを注ぐ。

 陽祐は美沙の顔を見て、にやりと笑ってみせた。

 美沙は口をとがらせながら、皿に盛りつけたキュウリの糠漬けを運んで来て、

「一年じゃ、まだお兄ちゃん十九じゃないの」

「大学生になれば酒と煙草と賭け麻雀は解禁だよ。なあ、陽祐?」

 父親が言って、母親が、

「あら、賭け麻雀はまずいでしょ。せめてパチンコじゃないの?」

「やだもう、この家のオトナ。つき合いきれない。先に寝ちゃえばよかった」

 美沙はあきれた顔で、火にかけた素麺の鍋の前に戻る。

 その背に向かって母親が、

「美沙ちゃんも一杯やる? 仲間にお入りなさい」

「結構です」

 美沙は振り返らずに答えた。本気で怒っているような口ぶりだったが、母親も父親も笑うばかりだった。

 

 

 翌日の朝食はいつも通り母親が作った。美沙が先に食べ終えて席を立った。もともと少食だし、陽祐よりも学校が遠いので早めに家を出るのだ。

 父親は新聞を読みながら食後のお茶を飲んでいて、次に席を立ったのは陽祐だった。

 駅まではバスが出ているが、自転車で行っても十分ほどだ。陽祐も美沙も、よほど天気が悪くなければ自転車を使っている。

 いつも通りの時間に家を出て、定期利用している線路際の駐輪場に自転車を停めた。

 駅へ行くと、改札の前で麻生と鉢合わせた。

「あっ、センパイ。おはよーございまぁーっす」

 微笑んだ麻生は、今朝は頭の後ろでまとめた髪をシニヨンにしていた。

「おまえ、朝練?」

 たずねた陽祐に、麻生はきょとんと眼を丸くして、

「ああ、この髪ですか? きょう、体育がプールなんですよぉ。テスト前に体育って、やめてほしいのに」

「でも、体育はペーパーテストがねーから、普通の授業で成績つけるしかねーんだろ」

「そっかぁ。あたし、前半ちょっとサボっちゃったからなぁ……」

 麻生は上目遣いに陽祐の顔を見て、悪戯っぽく笑い、

「だけど、センパイ。この時間に登校してるのに、朝練はないでしょ?」

「ああ」

 陽祐は苦い顔をする。朝練でも体育でもどちらでもいいのだ。適当に話題を振っただけだから。

 ホームは混み合っていたが、陽祐は麻生とはぐれることなく同じ電車に乗り込んだ。はぐれても陽祐に不都合はないのだが。

「センパイに話した、うちのクラスの子」

 麻生が言って、陽祐はきき返した。

「あ?」

「きのうの夜、また電話があったんですよぉ。どうしても一度、陽祐センパイに会ってほしいって。なんだか、うらやましくなるくらい一生懸命でぇー……」

「だから、んな暇ねーって言っただろ」

「ええ、センパイはそう言うだろうと思って、断ったんですけどぉ」

「じゃあ、話は終わりだろ?」

「そうなんですけどぉ……」

 麻生は笑っている。何度も同じ話をして、こっちの気が変わるのを待っているのか。

 ため息をついて、陽祐は言った。

「おまえのほうは、どうなんだよ。前に部の奴らと話してた、どこかの大学の水泳部員とは続いてるのか?」

「水泳部じゃなくて水泳サークルですけど、最近、会ってないんですよぉ。語学留学したいから、学費稼ぎのバイトで忙しいとか言ってぇー」

「そっか……」

 陽祐はうなずく。

 本音を言えば、麻生が何人目かの彼氏とうまくいこうがいくまいが、どうでもいい。黙っているのも気づまりだから、無理して会話しているだけだ。

 この時間の電車で麻生と会うことはなかったのだけど。あしたからは、もう一本早いのに乗るべきか。

 電車が揺れた。

「きゃっ……!」

 麻生が陽祐の腕をつかんだ。

 だが、すぐに手を離し、赤くなってうつむく。

「ごめんなさい……」

「いや」

 謝られるほどのことでもない。

 ふと思った。こちらと同様の気づまりを、麻生も感じているのではないかと。

 だが、それならば、きのうの帰りのように自分から声をかけてくるはずはない。

 結局、麻生が何を考えているかなんて、わかりようもなかった。

 つき合っていたときから、わかり合えていなかったのかもしれない。ファッションリングや手袋に喜んだ顔をしながら、麻生が内心で何を考えていたのか。

 そこまで勘ぐったら、人間不信だろうか?

 高校の最寄り駅に着いて、電車を降りた。

 改札に向かいながら、麻生が言った。

「……センパイ、受験生だから、時間はいくらあっても足りないですよね?」

「まあな。だから、おまえのクラスの奴とつき合ってる暇は、本当にねーから」

「その話は、もういいです」

 麻生は苦笑いして、

「勉強に集中していれば、あっという間に時間がたって、もっと時間がほしいと思うのかなぁって?」

「いつも集中していられるわけじゃねーけどな」

 陽祐は眉をしかめて言う。

「予備校でも気が乗らねーときは、早く授業が終わらねーかと思うし。それに、集中してすぐに時間が過ぎたとして、神様か誰かからオマケで余分な時間をもらえたとしてもさ、その分は集中が続かなくて無駄にしちまうんじゃねーの? 結局、一日なんて、いまの長さでちょうどいいんだよ。あとはそれを、どれだけうまく使うかで」

「あたしは机に向かっても、時計ばかり気にしちゃうんです。どこまで勉強しようじゃなくて、何時まで勉強しようって、先に決めるからダメなんでしょうけど。それで、ろくに頭に入らないまま無駄に時間を過ごして、あとで後悔するんです。つまり、集中できてないってことでしょうけど……」

 陽祐が先に改札をくぐり、麻生があとに続いた。

 少し歩いたところで、麻生は足を止めた。

「時間を巻き戻せたらいいなって、思うことありませんか?」

「…………」

 陽祐は振り返り、

「時間を無駄にする癖がついてる奴は、いくら巻き戻したところで無駄じゃねーの?」

「そう……かも、しれないですね」

 麻生は微笑んだ。

「あたし、友達と待ち合わせるんで、ここで」

「ああ」

 陽祐は麻生に背を向け、バス乗り場に向かった。

 

 

 きのうと同じ九時半過ぎに家に帰った。

「たでーまー」

 玄関から声をかけると、

「おかえりー」

 居間から母親の返事がある。

 母親は缶ビール片手にソファに座って、テレビのドラマを観ていた。

 ダイニングへ行くと、テーブルにポークソテーがラップをかけて置いてある。

「冷蔵庫にサラダが入ってるから」

 母親が言って、つけ足すように、

「ビールも入ってるけど、きょうはダメよ」

「飲まねーよ。メシ食ったら勉強だ」

 陽祐は空いている椅子に鞄を置いて、ソテーをレンジにセットした。

 サラダを出したり、ごはんをよそったりしていると、

「美沙、まだ怒ってるみたいなの。ご飯のあと、すぐ二階に上がっちゃって」

「はん?」

 陽祐が振り返ると、母親は眼はテレビに向けたままで、

「あとで、それとなく様子を見てくれる?」

「きのうオフクロがしつこくビール勧めたからだろ」

「調子に乗りすぎたのは反省してる」

 言いながらビールをあおるのは、少しも反省していない態度だ。この不良オバン。

「……メシ食ったあとで、声かけてみるよ」

 ため息まじりに陽祐が言うと、母親はようやく振り向いて、悪びれた様子もなく笑ってみせた。

「よろしくねー」

 

 

 食事を終えて、二階に上がった陽祐は、美沙の部屋のドアをノックした。

「はい……?」

 中から返事があって、ドアが開く。

「何、お兄ちゃん?」

 小首をかしげている美沙は、少しも怒っている様子はなかった。

 陽祐は気まずい顔で、

「オフクロに、美沙がまだ怒ってるみたいだから様子を見て来いと言われてさ」

「怒ってる? 美沙が?」

 きょとんとする美沙に、陽祐は自分のほうが怒っているような仏頂面で、

「メシのあと、すぐ二階に上がったからだと」

 ちらりと部屋の中を覗くと、机の上にノートパソコンが広げてあって、画面上で何かの絵がちらちら動いていた。何やら音声も聞こえている。

「友達にDVD借りたから観ようと思っただけなんだけど」

 美沙は言って、眉根を寄せた。

「ママにも言ったんだけどなあ」

「DVDなら下で観りゃよかったんじゃねーの? オフクロも好きだろ、映画とか」

「でも、昔のアニメだよ。漫研の子と話してて、面白そうだったから」

「何てやつ? ガンダム?」

 美沙が答えたのは、陽祐も聞き覚えのある名前だった。だが、かなり昔の作品だろう。原作者はいまも違う漫画で週刊連載中の人気作家だから、知っていたのだ。

「ずいぶん珍しいもの観てんだな……」

 半ばあきれる陽祐に、美沙は恥ずかしそうに眼を伏せて、

「文化祭の相談で、たまたま話が出たの。文化祭が舞台のお話だって。美沙、いま漫研に誘われていて……」

「おまえ、読むだけじゃなくて描いたりするの?」

 そんな才能があるとは十六年間、兄妹やってて知らなかった。

 しかし、美沙は首を振り、

「そうじゃなくて、漫研が文化祭に向けてドラマCDを自主制作するから、声優やらないかって」

「はーん」

 陽祐は曖昧にうなずく。

 他人の趣味だ。とやかく言うことじゃない。

「まあ、オフクロには怒ってなかったと言っとくわ、あとで風呂に行くときでも。邪魔して悪かったな」

「美沙が怒ってたように見えたとしたら、今朝のことかな?」

 ぽつりと美沙が言って、立ち去りかけた陽祐は足を止めた。

「え?」

「きのうは確かに少し怒ってたけど、今朝は眠かっただけだから、夜が遅くて。ママに、そう言っといてくれる?」

「……わかったよ」

 陽祐は妹の部屋の前から退散し、自分の部屋に入って、ため息をついた。

 受験生を伝書鳩に使わないでほしいと思った。

 

 

 零時過ぎに父親が帰って来た。車のエンジンが停まる音のあと、玄関の鍵を開ける音が聞こえたが、母親は先に寝たようで、迎える声はない。

 陽祐は勉強道具を片づけて、ダイニングへ降りていった。

 レンジにポークソテーをセットしている父親に声をかける。

「おかえりー」

「おう、いままで勉強か? あまり無理するなよ」

「オヤジもな」

「……飲むか?」

 冷蔵庫からビールを出して、にやりとする父親に、陽祐はすでに食器棚から出していたグラスを二つ、掲げてみせて、にやりと笑い返す。

 テーブルについて、ビールを酌み交わした。

「ソテー、少し食べるか、つまみの代わりに?」

 父親が言って、陽祐は首を振る。

「寝る前に食うと太るから、いいや」

「それを言ったらビールもだぞ」

「あしたは体育で少し泳ぐから」

「そうか……」

 しばらく会話が途切れる。

 陽祐は、言った。

「大学受かったら、春休みに免許とりに行かせてもらえる?」

 以前から機会があれば父親に頼もうと思っていたことだった。

 すると父親は、

「受かったらと言わず、いつでもとりに行けばいいじゃないか。どうせ必要になるんだ」「大学入ったらバイトして返そうと思って、教習所代」

「それくらい出すよ。バイトするなら、もっと違うことに使え」

「ありがと」

 陽祐はビールを一口飲んで、

「……俺って、恵まれてるのかな?」

「そんな台詞は大学受かってから言ってみろ」

 父親は笑った。

「だけど、陽祐が免許をとったら、車を買い替えてもいいな。来年車検だし」

 いま乗っているのは四年目の国産セダンだった。

「今度は何にするの?」

「ワンボックスはどうだ? あれこれ積み込んで、家族みんなで川へ行ってバーベキューなんてのは嫌か、子供のときにやったみたいに?」

「免許とらせてもらえるなら、考えとく」

 陽祐は答えて、父親と笑い合った。

 

 

 ――そして翌朝、陽祐は異変を知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   第三章  美沙

 

 

「――て、――ちゃん。ねえ、起きて……」

 揺り起こされた。

「んあ……?」

 陽祐は、しかめ面で目を開ける。

 美沙の不安げな顔。

「変なの。ママもパパも、どこにもいないの」

「え?」

「いつもならママ、美沙より先に起きて、朝ごはんやお弁当作ってくれてるのに、キッチンにいなくて。寝坊かなと思って起こしに行ったら、二人ともベッドが空なの」

 美沙は女子高のセーラー服姿だった。カーテンの隙間から差し込む日の明るさで、いまが朝だとわかる。

 じきに陽祐の目覚ましも鳴る頃だったろう。五分くらい損した気もするけど。

「……便所かシャワーじゃねーの?」

 眠い眼をこすって陽祐が言うと、泣きそうな顔で美沙は叫んだ。

「家じゅう捜したの! でも、いないんだってば!」

「…………」

 陽祐はベッドから起き上がろうとして、

「……わりーけど」

「えっ……?」

「ちょっと外に出ていてくれ。着替えるから」

 タオルケットの下はトランクス姿だった。最近はパジャマを着ないで寝ているのだ。おまけに男の朝の生理現象が起きていた。

 

 

 Tシャツとジーンズに着替えた陽祐は、部屋の前で待っていた美沙と二人でもう一度、家中を捜してみることにした。

 階段を降りながら、陽祐はたずねた。

「置き手紙とかなかったか? 誰か親戚が死にかけて病院に駆けつけるとか」

「何もなかった。二人とも携帯も置きっぱなしで」

 両親の寝室は一階にあった。念のため居間とダイニングも覗いたが、誰もいない。

 寝室もやはり無人だった。家具はダブルベッドと、その脇にサイドテーブル。クロゼットは作りつけ。ほかに鏡台があり、両親の携帯がその上に置かれていた。

 母親の携帯の着信履歴を見た。きのうの昼間、登録名『聡子ちゃん』という友人らしい相手からかかってきたきりだ。発信履歴はおとといまで遡る。メールも発着信を過去十件ずつチェックしたが、不審なところはないように思えた。

 父親の携帯はロックがかかっていた。試しに父親の誕生日を暗証番号に入れてみたが、違っていた。

 サイドテーブルの引き出しを開けた。父親の財布とキーホルダーが入っていた。四つある鍵は、自宅と車と、あとは会社の机やロッカーのものだろうか。

 そういや、車はあるのか? キーなら居間にスペアがある。

 カーテンを開けて、窓の外の車庫を見た。

 車は車庫にあった。

 クロゼットも開けてみたが、両親の服が下がっているだけだった。

 誰からか連絡があるかもしれないので、両親の携帯はジーンズのポケットに入れて持ち歩くことにした。

 一階にはもう一部屋、六畳の和室があった。この家が建てられた当時は客間という想定だったようだが、陽祐が知る限り、客が泊まったことはない。そこにも当然のように誰もおらず、念のため開けた押入れも、布団が二組、入っているだけだった。

 和室を出て、玄関へ向かう。美沙があとからついてくる。

 靴入れを開けて、

「オフクロの靴がなくなってるか、わかるか?」

「ママがどんな靴もってるか、全部は知らないよ」

「オヤジの靴はあるみたいだ。いつも同じのしか履かないから、すぐわかる」

 ドアの鍵はかかっていた。鍵が開いたままなら、いよいよ不審だったけど。

 サンダルを突っかけて玄関の外に出た。

 日差しがいやに眩しかった。顔をしかめて、門の脇の郵便受けを確かめた。

 手紙などは入ってなかった。

 それに、朝刊もない。

 玄関から心配そうに見ている美沙にたずねた。

「新聞、とったか?」

「まだとってない。いつもパパがとりに行くでしょ」

「オヤジは何時に起きてる、いつも?」

「美沙より少しあとだよ」

 それなら、今朝は父親が新聞をとったわけではないのだろう。配達を忘れられただけかもしれない。

「…………」

 ふと違和感を覚えて、家の前の道を左右、見渡した。

 物音がしなかった。

 人も車も通らない。

「……きょう、日曜じゃねーよな?」

「木曜だよ。なに言ってんの」

「そうだよな。日曜ならオヤジたち、二人で早起きして散歩かもしんねーけど……」

 もう一度、辺りを見渡す。

 景色はいつもと変わりないようでいて、庭木の葉っぱが風にそよぐほか、何も動くものがなく、あまりにも静寂。

「……隣近所をピンポンダッシュして回ったら、怒られるよな?」

「ばか、当たり前でしょ。冗談を言ってる場合じゃないんだよ」

「逃げるから怒られるんだ。適当なこと言って、ごまかせばいいのか」

「ちょっと、お兄ちゃん……?」

 陽祐は門の外に出た。道を横切り、向かいの家を門の前から覗き込んだ。

 いつもなら、たちまち吠えかかってくるはずの、玄関脇の犬小屋のラブラドールがいなかった。

 もちろん、散歩に出かけているだけかもしれない。

 チャイムを押した。

 ――応答なし。

 開いていた門の中に入り、玄関のドアをノックして「すいません」と呼びかけたが、返事はなかった。

 その隣の家へ行って、またチャイムを押した。やはり応答なし。

 ドンドンとドアを叩き、「すいませーん!」と叫んだ。

 反応がないので、そのまた隣の家へ走った。チャイムを押し、ドアを叩いた。

 そしてまた次の家で、同じことの繰り返し。

 面倒になって、道の真ん中で怒鳴ってみた。

「おーいっ! 誰か、いねーのかっ!」

「お兄ちゃん……」

 心配そうな顔でそばに来た美沙に、陽祐は言った。

「おまえ、向こう側の家、チャイム鳴らして回れ」

「ママたちが来てるって言うの?」

「いや。どの家も、誰も出て来ねーと思うから」

「そんなこと……」

 美沙は眼を丸くして、陽祐の顔を見つめた。

 

 

 家に戻って居間のテレビをつけた。どのチャンネルも砂嵐だった。

「……くそっ」

 テレビを消した陽祐に、美沙が、

「どういうこと、お兄ちゃん……?」

「わからん。だけど、消えたのはオヤジやオフクロだけじゃない。隣近所の人間がみんな消えた。向かいの犬もいないから、人間だけじゃないかもな」

「どうして? 漫画やSFじゃないんだよ」

「考えられるのは、地震とか災害が予知されて、みんな避難したのかも」

「でも、ママやパパまで……」

「ああ。オヤジやオフクロが、俺たちを置いて逃げるわけがない」

 その点は両親を信頼していいはずだ。

 ならば、何故みんな消えたのか? いったい、どこへ消えたのか?

 自分たち兄妹を残して……

「……いや、消えたのは、うちの近所だけか? テレビも映らないってことは……」

「美沙、友達に電話してみる。携帯とってくるね」

 美沙は高校の入学祝いでようやく携帯を手に入れていた。ついでにノートパソコンまで買ってもらったのはトップ合格のご褒美だ。

「俺も自分の携帯とりに行く。なるべく一緒に行動したほうがいいだろ、俺たち」

 二人で二階に上がって、それぞれの部屋から携帯を回収した。

 美沙はすぐに何人かの友達に電話したが、

「誰も出ない……」

 陽祐も同じことを試したが、無駄だった。

「北海道の伯父さんはどうだ?」

 母親の携帯に登録されていた番号にかけてみたが、やはり相手は出なかった。父親の実家も同様だ。

 二人は、無言で居間に戻った。

 陽祐はソファに座り、役立たずな携帯を傍らに投げ出す。

 美沙はうつむきながら、その前に立った。

 いまにも泣き出しそうな赤い顔。

「…………、美沙が……」

 何やらつぶやき、陽祐はきき返した。

「え?」

「……まさか、こんなこと……。だって、そんな……」

 意味のある言葉ではなかった。よほど混乱しているのだろう。

 陽祐はソファの上で胡坐をかいて、膝に頬杖をついた。

 何やら考え込むようなポーズだったけど、実際には何も考られなかった。

 父親と母親が消えた。

 隣近所の住人も消えた。

 親戚や友人に電話しても誰も出ない。テレビも映らない。

 その事実を反芻しているだけだ。

 どうして、みんな消えた?

 ――考えたって、わかるわけがない。

「……おまえも座ったら? とりあえず、これからどうするか、考えてみるから」

 陽祐が声をかけると、美沙は首を振った。

 それから、思いきったように顔を上げて、微笑んでみせ、

「とりあえず、朝ごはん作るね。タイマーでごはんだけ炊けちゃってるから」

 食欲なんて、あるはずなかった。

 けれども、美沙が料理で気を紛らわしてくれるのなら、ありがたかった。

 泣かれたりするのが一番困るのだ。陽祐自身、途方に暮れて、意味もなく叫び出したい気分なのだから。

 

 

 美沙が料理をしている間、陽祐は居間のパソコンのネットで、思いつく限りの場所にアクセスしてみた。

 二十四時間随時更新が売りのはずのニュースサイトは、夜中の一時以降、新しいニュースがなかった。

 不特定多数が書き込む匿名掲示板も、最後の投稿が午前一時。

 一時といえば、陽祐が寝た時間だ。

 その頃に、みんな消えたのだ。おそらく、日本中の人間が。

 海外のサイトも見てみたが、陽祐の語学力では、いつから更新されていないのか判断がつかなかった。

 国際電話をかければいいと思いつく。相手が出れば、少なくとも日本以外の国には、まだ消えてない人間がいるとわかる。

 各国の観光協会あたりなら、日本語の通じるスタッフがいるだろう。彼らにこちらの事情を説明してみよう。日本と連絡がとれなくなっていることは海外でも騒ぎになっているはずだ。自分たち兄妹に、救いの手が差し延べられるかもしれない。

 世界中の人間が消えたわけじゃなければ。

 ネットの世界時計で時差を調べて、いまなら業務時間内であろうオーストラリア政府とハワイ州とロサンゼルス市の観光局のサイトを検索し、そこに掲載されていた代表番号に電話してみた。

 いずれも相手は出なかった。

 この世界に自分たち二人だけが取り残されたと思うほか、なくなってきた。

 いまさらだけど、夢じゃねーよな?

 頬をつねったら痛かった。

「お兄ちゃん、ごはんだよ」

 美沙に呼ばれてダイニングへ行く。

 ごはんと味噌汁、卵焼きとトマトとキャベツの千切りという、申し分のない朝食が用意されていた。

「……おまえがいてくれてよかったよ」

 ぽつりと言った陽祐に、きょとんとした顔で美沙は、

「えっ……?」

「とりあえず温かい食い物にありつけるもんな。これがオヤジと二人だったら、どうなってたか」

「なに言ってるの」

 美沙は笑う。

 二人で「いただきます」と言い合って、食べ始めた。うるさいことは言わない両親だけど、食事の挨拶はしつけられてきた。

 たぶん、この世界で一人きりになっても自分は「いただきます」を言うだろうと陽祐は思った。それが食べ物に対する礼儀だというのが両親の教えだ。

 美沙は小さな茶碗によそったごはんを、小鳥がついばむように少しずつ、口に運んでいる。少食なのは元からなので、食欲がないわけではないらしい。

 陽祐も、食べ始めてしまえば失せていたはずの食欲が戻って来た。

 美沙がきいてきた。

「ネットで何かわかったの?」

「ああ。あとで話そうと思ったけど……」

「何? いま聞いても平気だから、教えて」

「この世界には、いま、俺たち二人しかいない。ほかの人間は誰もいないと思う」

「…………」

 さすがに美沙は箸を止めた。

「……待って。この世界って、どういう意味?」

 微妙な言い回しに、美沙も気づいたらしい。

 陽祐は味噌汁をすすって、

「何の確証もないけど、ここは俺たちがいた世界とは別の、パラレルワールドみたいなもんじゃないかと思えてきた。おまえのほうが、こういう話は詳しいんじゃねーか、漫画とかアニメで?」

「…………」

 美沙は、じっと陽祐を見つめている。

「……どうして、そう思うの?」

「だって、そうじゃなければ、本当にみんな消えちまったことになるだろ? オヤジやオフクロを含めて、人類全てが。それよりは、俺たち二人だけが違う世界に迷い込んだと考えたほうが納得いく」

「ママやパパか、美沙たちか、世界から消えたのは、どちらかってこと……?」

 美沙は箸を置いて、うつむいた。

 陽祐はトマトを口に運んで、

「あとで聞いたほうがよかったろ?」

「……どうせ聞くなら、早いほうがいい」

 美沙は、うつむいたまま首を振る。

「でも、確かに現実感ないね。世界中の人間が消えて、美沙たち二人が残ったなんて」

「戦争とか疫病ならわかるけどな。いや、そのほうがいいって言ってるわけじゃねーぞ。全人類が跡形もなく消えるよりは、理解できるってことで」

 卵焼きを飲み下して、

「だけど、消えただけのほうが救いがあるか。消えたときと同じように、そのうちみんな戻って来るかもしれねーから。あるいは、俺たちが元の世界に戻れるか」

「お兄ちゃんって、冷静だね」

「現実感がねーからな、おまえの言う通り」

「…………」

 美沙はもう一度、箸を手にとった。

「無理して食わねーでいいぞ」

 陽祐が言うと、美沙は首を振り、

「食べる。ママやパパがいつか戻って来るのなら。それとも、美沙たちが元の世界に戻れるのなら。まずは、いまいるこの世界で、美沙たちは元気に頑張らなくちゃ」

 美沙は顔を上げて、まっすぐ陽祐の顔を見た。

「そうでしょ、お兄ちゃん?」

「そうだな……」

 陽祐は眼を細めた。

 しっかり者の妹が、意外と芯まで強いことは、新しい発見だと思った。

 

 

 朝食後、陽祐と美沙は、自転車に乗って町を探索した。

 世界中の「ほとんどの」人間が消えたらしい。だが、わずかな例外である自分たち兄妹と同様に、この世界に残っている人間が、ほかにいるかもしれない。

 あるいは、皆が消えた手がかりが見つかるかもしれない。

 それとも、この世界が何らかの理由で発生したパラレルワールドであるならば、その証拠を見つけられるかもしれない。

 車が通らないので、車道上を二台並んで自転車を走らせることにした。

 バス通りを駅へ向かう。

 道沿いに並ぶ商店は、シャッターを下ろしたままだ。

「この世界のおかしな点に、一つ気づいた」

 陽祐は言った。

「午前一時にみんなが消えたとして、この通りは一晩中、車とかトラックが通ってるはずだろ? 運転手が消えた車が事故を起こしてもいいのに、そんな形跡はない」

「でも、道端に停まってる車はあるね。路上駐車っての?」

 美沙が言って、陽祐はうなずき、

「仮説としては、走行中の車だけが全て、運転手と一緒に消えたってことだな」

 行く手の信号が赤になり、美沙がブレーキをかけようとしたが、陽祐がスピードを落とさないので、黙って従った。横から車が飛び出して来ることは当然、なかった。

 その先にコンビニがあった。駐車場に無人の車が二台。店内は明かりがついているが、外から見える範囲で人影はない。

「ちょっと寄ってみよう」

 店の前に自転車を停めて、中に入った。

 店員も客もいないこと以外は、何の変哲もないコンビニエンスストアだった。棚が寂しく見えるのは、早朝に行なうはずの商品補充がされていないからだろう。

 残っていた弁当を手にとってみた。賞味期限はきょうの昼までだ。おにぎりやお惣菜も同じだった。

 しかし、冷凍食品のコーナーは、それなりに商品が並んでいる。

「食料は当分、なんとかなりそうだ。冷凍庫の電源が切れなきゃだけど」

「停電したりするかな?」

「わからん。トラブルさえなければ、発電所は自動で送電してるもんだと思うけど」

「ここで食べ物を手に入れるとして、お金はどうする? パパの財布から借りておけばいいかな?」

「店員もいないのに、誰に金払うんだよ」

「レジに入れておけば……」

「本気で言ってる?」

 陽祐は美沙の顔をじっと見つめた。

 美沙は気まずそうに眼を伏せ、

「いちおう本気だけど……、変?」

「おまえらしいけどな」

 コンビニを出て、再び駅へ向かって自転車を走らせた。

 駅へ行ってどうしようという考えはなかったけど、ほかに目指す場所もない。

 駅の近くにある三階建ての大型スーパーは、店の前の駐車場のゲートバーが閉まり、案内板に『定休日』と表示されていた。本来は水曜定休だから、きのうからそのままということだ。駐車場の奥にある店舗の入口はシャッターは下りていないが、当然施錠されているだろう。いざとなればガラス戸を割って押し入ってもいいのだけど。

 駅前にも、やはり人の姿がなかった。ロータリーにタクシーを含めて数台の車が停まっているが、いずれも車内は無人だ。

 銀行はシャッターが下りていた。それを指差して、陽祐は、

「いまの世界で、一番役に立たないのがアレだな。それとも、世界が元に戻ったときに備えて、いくらかカネを持ち出しておくか?」

「閉店してるから、お金は全部金庫にしまってあるんじゃない?」

 美沙が冷静に答えて、陽祐は苦笑いした。

「おまえの言うとおりだな。どこからか爆弾でも手に入れてくるしかねーや」

 交番も無人だった。中を探せば拳銃があったりするのだろうか。触ってみたいと思わない自分は、まだ健全なのだろう。

 いずれ、この世界に絶望したら、どうなるかわからないけど。

 駅のシャッターは下りていなかった。午前一時といえば最終電車が到着した前後だ。終点はまだ先だった。この駅を出発した電車は、そのまま運転手や乗客ごと消えたのか。

「駅の中、見てみる?」

 美沙が言って、陽祐は首を振った。

「いや、無駄だろう。それより、ほかに確かめておきたい場所がある」

「どこ?」

「スタンド」

「えっ……?」

 きょとんとしている美沙にそれ以上は説明せず、陽祐は自転車を出す。

 ロータリーから伸びている、いま走って来たのとは別の道を進むと、すぐ先にガソリンスタンドがあった。

 給油機の前まで自転車を乗りつけて、ノズルを手にとり、地面に向けてレバーを引く。 びゅっとガソリンが吹き出したので、すぐレバーを放した。

 美沙がたずねた。

「ガソリンなんかどうするの?」

「車で移動することになったとき、必要だろ?」

「車? お兄ちゃん、運転できるの?」

「たぶん。うちのオートマなんて、おもちゃみたいなもんだろ」

「……美沙、一緒に乗らなきゃダメ?」

 陽祐は妹の顔をじろりと見た。美沙は苦笑いして、

「冗談だって」

「この世界で一人きりになるのと俺の運転、どっちが怖いだろうかね」

「やめて。やだ、一人になるのは考えたくない……」

 美沙は本気で怖がる顔をした。

 冗談のつもりが脅かしてしまったようだ。これは自分が道化を演じるしかないと陽祐は思って、

「情けねーこと言っていいか?」

「え……?」

「俺も一人になるのはごめんだ。頼むから一緒に乗ってくれ」

 そっぽを向きながら言ってみせた陽祐に、美沙は、くすくす笑った。

「いいよ。これから、どこに行くのも一緒ね」

 

 

 コンビニまで戻って、当面の食料と必要な物資を調達することにした。

 もったいないので賞味期限寸前の弁当は昼食に充てる。夕食以降の食材としてカット野菜と冷凍肉を手に入れる。ガスや水道が止まったときに備えてミネラルウォーターと缶詰も確保した。バンソウコウや薬は家にあるはずだが、予備があってもいいだろう。

 ほかに入用のものはないか探して、買い物カゴを手に店内を回る陽祐のそばから、

「ちょっとだけ待ってて」

 と、美沙が離れて行き、棚から何かの商品をとってレジに向かった。

「どうした?」

「ごめん。ちょっと」

 美沙はカウンターの向こうに回り、手にした商品をレジ袋に入れている。

 何となくわかった。女の事情だ。

 考えたら、美沙もいちおう女なのだ。実の妹だから、意識しなかったけど。

 世界中の人間が消えて、自分以外でたった一人残った相手が妹だったというのも色気のない話だ。

 この世界のアダムとイブにはなれねーな、俺たちじゃ。

 いっぱいにふくらんだレジ袋をそれぞれの自転車のカゴに押し込み、陽祐と美沙はコンビニをあとにした。結局、金は置いてこなかったが、美沙は何も言わなかった。

 バス通りを家に向かって走る。

 美沙が言った。

「もし、世界がずっとこのままなら、どこか田舎に移住して、農業を始めるのもいいんじゃない? コンビニやスーパーの食料なんて、すぐになくなっちゃうだろうし」

「そうだな。コメは長持ちするから当分は米屋の倉庫を漁るとしても、野菜がな……」

 陽祐は、ふと気づいて、

「この世界って、俺たちのほかに動物もいないのか?」

「えっ……?」

「向かいの家の犬は消えてたし、鳥とか虫が空を飛んでる様子もないだろ? 人間だけが消えて、牧場の牛や豚とか、ペットの犬や猫が残ってたら悲惨なことになるけど、その点は救われてるみたいだな」

「そうだね……」

 うなずく美沙に、陽祐は眉をひそめて、

「でも、それじゃ俺たち、肉も魚も食えねーじゃん。せめてニワトリを飼って卵くらい食いたかったけど」

「そうだね」

 美沙は苦笑いした。

 

 

 家に帰ったが、まだ昼食には早かった。

 陽祐と美沙は、プリンター用のA4の白紙を三枚、ダイニングのテーブルに広げて、

 

 1・いま現在わかっていること

 2・考えられる原因

 3・今後の対策

 

 を、思いつく限り書き出した。

 わかっているのは、世界中の人間がきょうの午前一時前後に消えた「らしい」こと。この町も調べた限りでは無人である「らしい」こと。人間以外に動物も消えた「らしい」が植物は残っていること。いまのところ、世界のどことも連絡がつかないこと。

「『らしい』って言うのは、俺たちと同じように、この世界に残って途方に暮れている人間が、ほかにいないとは言いきれないからな」

 そのほか、先ほど見て来た町の状況についても、一枚目の紙に書き足した。

 

 ・コンビニ △(品揃えに限りあり)

 ・スーパー ?(ガラスを割って押し入れば?)

 ・ガソリンスタンド ○

 

 陽祐は腕組みをして、

「これは今後の対策に絡んでくるけど、もし野生動物まで全部消えていたら、自然の生態系はどうなるんだ?」

「食物連鎖とか、そういう話?」

 きき返す美沙に、陽祐はうなずく。

「植物の中には、昆虫が花粉を運んで育つやつもあるだろ? ハウス栽培するような野菜は関係ないかもしれないけど、農業やるにしても、そこをきちんと考えて、植える作物を選ばないと」

「そうだね……」

「おまえって、『そうだね』ばかりだな」

「えっ? ……ごめんなさい」

 美沙はうつむいた。

 陽祐は、まずいことを言ったと気がついて、

「いや、俺こそ悪い。ショックで何も考えつかないのは仕方ないもんな。俺がいろいろ書いていくから、おまえも思いつくことがあったら意見を言ってくれ」

「うん……」

 二枚目の「考えられる原因」は、全てが想像でしかなかった。推理といえるほどの根拠などない。

 陽祐は、用紙の最初に『パラレルワールド』と書いた。

「でも、ここは普通のパラレルワールドとは違うと思う。たとえば、織田信長が桶狭間で負けていれば、永禄三年以降に尾張の織田家が存在しないパラレルワールドが出来上がるだろうけど、人間が全く存在しないのに家や車があるこの世界は、どういうシチュエーションだ? 戦争や疫病で滅んだような形跡もないし」

「うん……」

 美沙はうなずく。

 陽祐は二番目に『コピーワールド』と書いた。

「それよりは、元の世界から人間だけ取り除いてコピーしたと考えたほうが納得いく。俺たちは、そのニセモノの世界に二人きりで迷い込んだんだ」

「世界をコピーするなんて、そんなこと、誰が何のためにやるの?」

「わからん。宇宙人か、どこかの秘密機関が、追い込まれた人間の心理を観察するために作った巨大な実験空間かもな、この世界は」

「よくそんなこと思いつくね、お兄ちゃん……」

 あきれているのか感心したのか、美沙はまじまじと陽祐の顔を見た。

 陽祐は苦笑して、

「俺だって漫画くらい読むからな。予備校に通い始めてから買ってないけど」

 三番目には『夢またはバーチャル』と書いた。

 美沙が小首をかしげて、

「夢……?」

「さっきの宇宙人の実験と一緒だけど、本当は俺たち、頭に電極とかつけられて、怪しい夢を見せられてるのかもしれないぜ」

「夢だとしたら、ここまでリアルな夢はないと思うよ」

「そこが宇宙人の超科学だよ。頬をつねったら痛かったし」

 陽祐は、にやりとした。

「おまえは試した?」

「えっ?」

「つねってやろうか、頬?」

「やめてよ」

 ふくれ面をする美沙の頬に、陽祐は手を伸ばす真似をして、

「その頬、つねり甲斐ありそーだ」

 美沙は、じっと陽祐を睨む。

「……あー、すまん」

 陽祐は手を引っ込めて、自分の頬を掻いた。

「真面目にやろうな」

「そうだよ」

「次は、超常現象だが」

 陽祐は用紙にそう書いて、

「人が原因不明のまま突然消えるといったら、普通はこれだけど。有名なのは乗員全員が姿を消したまま漂流していた『マリー・セレスト号』だな。ただ、世界中の人間が消えるのとは規模が違いすぎる。もちろん、原因もわからない現象だから、どんな規模で起きてもおかしくないとは言えるけど」

「そうだね……」

 言ってから美沙は、はっと気づいたように、うつむき、

「ごめんなさい」

「いいって」

 陽祐は笑って、

「超常現象の場合だけど、消えた人間がどうなるかも、二通り考えられるな」

 そう言うと、用紙に書き加えた。

 

 ・別の世界で生きている

 ・ブラックホール? に飲み込まれて消滅

 

 美沙が眉をしかめた。

「やだ……」

「すまん。謝ってばかりだな、俺のほうは」

 陽祐は『消滅』の字を塗り潰した。

「お兄ちゃんは、ママやパパがいなくなって平気なの?」

「まだ現実感がない。とか言ってる場合じゃないけど、オヤジやオフクロが完全に消えたとは考えられない。そのうち何でもない顔して、帰って来るんじゃないかと思う。だったら消滅なんて書くなって話だけど……」

「美沙も、ママたちはどこかで無事にいると思う。そう思いたいよ。でなきゃ、美沙、普通でいられないよ。本当に消滅したなんてことになったら、おかしくなっちゃうよ」

「ああ。俺だってそうだ」

 陽祐は二枚目の用紙を脇によけて、代わりに三枚目を引き寄せた。

「今後のことだけど、いくつか選ぶ道はあると思う。この世界の謎を徹底的に調べるか。いつか世界が元通りになると信じて、できるだけ普通の生活を続けるか。それとも、世界の終わりが来たんだと思って、好きなように暴れ回るか。町中のガラスを割ったり、火をつけたりな」

「お兄ちゃんは、どうするのがいいと思う?」

 美沙は兄の顔を、じっと見つめる。

 陽祐は「そうだな……」と腕組みして、

「謎を調べるのもアリとは思うけど、たぶん何もわからないで終わると思う。世界中の人間を消したのか、俺たち二人を違う世界に連れて来たのかわからないけど、そんなとんでもない力を持った奴が、俺たちに解けるような謎を用意してくれてるとは思わない」

「じゃあ、好きなように暴れて生きる?」

「それもどうかな。俺としては、オヤジやオフクロがいずれ帰って来るもんだと思いたいから。そのときに、町中のガラスが割れて、スーパーの壁や銀行のシャッターに『陽祐参上』とかペンキで落書きしてあったら、オヤジたちがどう思うよ?」

「そうだね」

 美沙はくすくす笑う。

「だったら、答えは決まりだろ? オヤジやオフクロがいつ戻って来てもいいように、俺たちは、できるだけ普通の生活を続けることだ」

「……うん」

 美沙は、うなずいた。

 

 

 昼食のあとは、駅とは反対の方向を自転車で探索することにした。

「何も見つからないとは思うけど、家に閉じこもってるより気が晴れるだろ?」

 住宅地を抜け、国道を越えて、その向こう側の住宅地も抜けると、眼の前に川の堤防がそびえていた。

 一面、緑の草に覆われているのが鮮やかだ。

 自転車を停めて、堤防の斜面を登っていく。離れた場所に階段もあったけど、そこまで行くのが面倒だし、草を踏みしめていくほうが心地いい。

 陽祐と美沙は、並んで堤防の上に立った。

 眼下には河川敷のグラウンド。その向こうに、夏の日差しに輝く水面。対岸には、こちらと同じような堤防。その奥に、どこまでも広がる町並み。

 何でもないような風景を眺めて、陽祐は、吐息をついた。

「川の向こうが、世界の果てだったりしないかと思ったんだけどな」

「世界の果て……?」

「そんなものが見つかれば、この世界がニセモノだって確信できるだろ?」

 美沙はそれには答えず、

「あした……」

「ん?」

「お昼、ここに食べに来ようよ。サンドイッチ作るよ」

 そう言って、微笑んだ。

 陽祐も笑って、

「じゃあ、どこかでパンを仕入れなきゃな」

 自転車を停めた場所まで戻り、帰りは違う道を通ることにした。

 国道との交差点の角に、レンタルビデオ屋があった。入口のシャッターが半分下りた状態で、ガラス戸が開いている。

「閉店直後だったみたいだな。何か借りていくか?」

「お兄ちゃんが観たいものがあるなら……」

 自転車を停め、シャッターをくぐって店内に入った。明かりはついているが、営業時間中なら流れているはずのBGMは止まっている。

 陽祐は新作の棚を物色して、スパイアクション物と刑事アクション物と戦争アクション物を借りていくことにした。とはいえ、返しに来ることがあるかはわからない。

「おまえも何か選んでおけよ」

 美沙に言うと、動物が主人公のアメリカ製CGアニメを一本だけ選んだ。

 陽祐は見本のパッケージを手に貸出カウンターの向こうに回り、後ろの棚に並んだDVDの整理番号と、パッケージに記された番号を照らし合わせ、目当ての作品を選んだ。

「お兄ちゃん、ビデオ屋でバイトしたことあったっけ?」

「引っ越し屋のバイトしかしたことねーけど、いつも店員がやってるの見てるから」

 DVDを手に入れて、店の外に出た。

 ふと思いついて、陽祐は美沙に、

「駅前のスーパーって、通用口に回れば、中に入れるんじゃねーの?」

「そうだね。お野菜とか、ちゃんとしたの欲しいし」

「あした、買い出しに行ってみようぜ。買うと言っても、金は払わねーけど」

 国道を挟んでビデオ屋の斜め向かいにコンビニがあった。二人はそこで八枚切りの食パンとハムとスライスチーズを手に入れてから、家に帰った。

 

 

 美沙が夕食の支度をしている間、陽祐は、居間のDVDでレンタル屋から持ち出した戦争アクション物を観ることにした。ほかの二本は一緒に観たいけど、これだけは興味がないと美沙が言ったからだ。

 映画の中の兵隊たちは、ばたばたと容赦なく敵弾に撃ち倒されていた。

 同じような光景がフィクションではなく現実として、つい十数時間前まで世界中のいろいろな場所で見られたのだろう。

 世界中から人間が消えて、戦争もなくなった。

 考えたら空しくなって、陽祐はDVDを止めて、デッキから取り出した。

「どうしたの?」

 美沙がキッチンから声をかけてきた。

「つまんねー映画だった」

 陽祐は美沙のそばへ行き、

「俺も何か手伝うよ」

「え? いいよ。お兄ちゃん、きのうまで毎日勉強だったでしょ、少し休みなよ」

「そう言われりゃ、そうなんだけど」

「ね? ちょっと早いけど、夏休み」

 美沙は微笑む。

 陽祐は妹の言葉に甘えて、代わりにネットで超常現象について調べることにした。

 本当の夏休みが来たときは、陽祐は夏期講習に通いつめる予定だったけど。

 

 

 夕食のメニューは、豚肉の生姜焼きだった。

 食事の間、陽祐は、超常現象について調べた結果を美沙に披露した。

 人間が原因不明のまま忽然と消えた事件は、過去に世界中で起きている。

 一八七二年、大西洋上の帆船『マリー・セレスト号』事件、乗員乗客計十一名消失。

 第一次世界大戦中のトルコにおける『ノーフォーク連隊』事件、イギリス軍兵士三百四十一名消失。

 遡って十六世紀末、当時イギリス領だった北アメリカの『ロアノーク島』事件、入植者百十六名が消失。

「このあたりは消えた人間がそれきり帰らなかったケースだけど、数ヵ月後に帰って来たとか、数百キロ離れた場所で保護された事件もいくつかあった」

「やっぱり、帰って来ることもあるんだね」

 美沙が言って、陽祐はうなずき、

「その場合、戻って来た人間は、自分が消えていた間の記憶を失っていることが多い。だから、あしたの朝、みんなが戻って来たとすると、本当は金曜なのに木曜だと思って生活することになる。世界中の時計が丸一日進んだ謎の事件だと思い込むかもな、消えていた人間の立場では」

「ややこしいね」

「ただし、『マリー・セレスト』も『ロアノーク島』も、超常現象じゃなくて災害による遭難とか、別の原因を指摘する説もある。湯気の立ってる作りたての朝食なんか残されてなくて、事実が誇張されて伝わっただけだとか。最近ではそのほうが有力みたいだ」

「お兄ちゃんも最初に言ってたけど、やっぱり消えたのは世界中の人間じゃなくて、美沙たちのほうかも。そのほうが救いがある気がする、世界のみんなにとって」

「オヤジやオフクロには、心配かけてるだろうけどな」

「そうだね……」

 美沙は首をかしげて考え込むような仕草をしてから、陽祐に視線を向け、

「ビール、飲む?」

「え? いいのかよ、委員長?」

「委員長はやめてよ」

 美沙は笑って席を立ち、冷蔵庫からビールと、食器棚からグラスを二つ出した。

「おまえも飲むのか?」

「だめ?」

「許す。というか飲め。一人で飲んでもつまらん」

 お互いのグラスにビールを注いで、乾杯した。

 陽祐は一息にグラスを干した。旨かった。

 だが、美沙はちょっと口をつけただけで、咳き込んだ。

「……けほっ、何これ? よくお兄ちゃんもママも、こんなの美味しそうに飲むね」

「この味がわかんねーんじゃ、まだまだ子供だな」

「子供だもん、どうせ。きのうも本屋で中学生と間違われたし。参考書の売り場を聞いたら、小中学生用のコーナーに案内された」

 美沙はふくれ面で、もう一口、飲んでみせる。

「無理して飲むな。酒の味がわかんねー奴が飲んでも、もったいねーだろ」

「わかるようになるまで飲むの。ママとパパの子供だもん、美沙だってお酒に強いに決まってるんだから」

「おまえ、そのうちオフクロみたいな大酒飲みになりそうだな」

 陽祐は苦笑いするしかなかった。

 

 

 食後は陽祐が皿洗いをした。美沙は赤い顔をしていたので、ソファで休ませた。

 突然、着メロが聞こえて、陽祐は思わず皿を落としそうになった。

 振り返ると、美沙が陽祐の携帯をいじっていた。

「……おまえ、何してんの?」

「ん? あ、ちょっと借りてた」

 美沙は悪びれた様子もなく笑ってみせる。酔ったときの態度が母親そっくりだ。

 陽祐は、ため息をついた。

「見られて困るよーなもんは、ねーけどな」

「そうなの? メールとかも?」

「前の彼女とのは全部消したぞ、そのこと言ってるなら」

「ふうん」

 美沙はつまらなそうな顔で、ごろりとソファに横になったが、携帯は手放さない。

 陽祐は皿洗いを再開した。

 しばらくしてから、美沙が言った。

「……お兄ちゃんって、今年に入って携帯買い換えたよね?」

「ああ」

「電話帳は昔のまま?」

「データはそのまま移してもらったけど、なんで?」

「べつに……」

 見られて困るものが本当になかったか、心配になってきた。

 だが、登録名にはフルネームを入れているだけで、クラスメートも部活の女子も同じ扱いだから、昔の彼女の名前が残っていても美沙には判別できないだろうと思い直す。

 皿洗いを終えた陽祐は、携帯いじりに飽きた美沙と一緒に、レンタル屋から持ち帰ったCGアニメを観ることにした。

 あまり子供向けとはいえないブラックなジョークが利いていて、二人で大笑いした。

 アニメが終わって、美沙はソファから立ち上がり、「うーん」と伸びをした。

「……美沙、そろそろシャワー浴びようかな」

「ああ、行ってこい」

 デッキからDVDを取り出しながら陽祐が答えると、

「ねえ」

「……あん?」

 振り向いた陽祐に、美沙が頬を赤らめて、言った。

「お兄ちゃん、ついて来てくれない?」

 

 

 まったく、色気のねー話だな。

 陽祐は文庫本を片手に脱衣場の床にあぐらをかきながら、ため息をついた。

 曇りガラス一枚隔てた風呂場では、うら若き十六歳の娘がシャワー中だ。それが実の妹でなければ、少しは興奮していいシチュエーションだろう。

 美沙がもう少しくだけた性格なら、ガラス戸をちょっとだけ開けて「背中流そうか?」とか、冗談の一つも言ってやるところだった。

 しかし、美沙にそれをしたら、悲鳴を上げたあと泣き出すか、怒り出すかだろう。

 かといって、戸を閉めたまま脱衣場から話しかけても、シャワーの水音で美沙には聞こえない。

 だから陽祐は、黙って本を読んで待つしかないのである。

 しばらく前に買ったけど、読む暇のなかった歴史小説だった。当分、世界から自分たち兄妹以外の人間が消えたままで、毎晩、妹のシャワーの間に脱衣場で待たされるならば、しっかり読み終えることができそうだ。

 シャワーの音が止まった。風呂場から美沙の声。

「お兄ちゃん、ありがと。もう出るから、廊下で待ってて」

「ああ」

 やれやれと陽祐は立ち上がり、脱衣場から廊下に出て、ドアを閉めた。

 逆に自分がシャワーを浴びている間、美沙は脱衣場で待つつもりだろうか。勘弁してほしいけど、仕方ないのか。

 理由もわからず消えた両親に続いて、兄まで消えるのではないかと不安なのだろう。

 そのうちトイレまでついて来てほしいと言い出さなければいいけど。

 

 

 予想した通り、陽祐がシャワーを浴びている間、パジャマ姿の美沙は脱衣場で待つと申し出た。やむを得ず陽祐は承知した。

 シャワーを終えて、脱衣場でTシャツと短パンに着替えていると、ドアの向こうの廊下から美沙が言った。

「ねえ、きょうは一階で、一緒に寝ない?」

「いいけど」

 夏場だし、枕とタオルケットだけ用意して居間でゴロ寝もいいだろう。

 ところが美沙は、

「じゃあ、あとでママたちのベッドのシーツ替えるね」

「ちょっと待て、そりゃ、あれだろ」

「ママとパパのベッドで寝るの、嫌?」

「オフクロたちがどうのってんじゃなくて……」

 ダブルベッドで妹と一緒に寝る気にはならんぞ、さすがに。

「和室で寝ようぜ、そのほうがいいだろ」

「でも、お布団ずっと干してないと思うよ」

「敷布団だけなら我慢できるだろ。枕とかは自分のを用意して」

「いいけど……」

 納得してくれ。それで。

 

 

 和室に布団を並べて横になった。

 窓は開けて、網戸だけ閉めておいた。虫が入ってくることはないと思ったけど。

「二人で一緒の部屋で寝るのって、いつ以来?」

 美沙がきいてきた。

 陽祐は、天井を見上げたまま、

「さあ……」

「おじいちゃんの家に泊まるときは、お兄ちゃんはパパと二人で寝るし」

「うん」

「家族旅行はお兄ちゃん、嫌がるし」

「中学一年か二年のときから行ってないな、そういえば」

「そうだよ。お兄ちゃんが留守番するとか言うから、美沙たちも日帰りになったりして」「そりゃ悪かった」

「ねえ」

 指先に美沙の手が触れた。陽祐は妹の顔を見た。

 窓から差し込む月明かりの中で、美沙は、じっと陽祐を見つめていた。

「子供だよね、美沙。お風呂場までついて来てとか言って、一人になるのが怖いなんて」「俺だって怖いよ。その点は安心しろ」

 陽祐は美沙の手を握ってやった。美沙は微笑んだ。

「おやすみ、お兄ちゃん」

「ああ、おやすみ……」

 

 

 二人きりの世界での一日目が終わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  第四章  美沙(二)

 

 

 美沙に起こされた。

「お兄ちゃん、朝だよ」

「あ……?」

 眼をしばたたく。

「いま何時?」

「わかんないけど、もう明るいよ」

「そりゃ夏だから、早い時間から明るいっつーの」

「でも、きのうお洗濯してないし、サンドイッチも作らなきゃだし。それに、きょうは本当なら金曜でしょ。なるべく普通の生活するんじゃないの?」

「そしたらおまえ、俺は受験勉強しなくちゃな」

「するなら邪魔しないよ」

「やる気になるわけねーだろ」

 陽祐は眼をこすりながら、起き上がった。

 美沙が自分のタオルケットを畳みながら、

「お兄ちゃんはお洗濯と、お布団を干してもらって、朝ごはんのあとは、お掃除ね。美沙は朝ごはんとサンドイッチを作るから」

「わかった、わかった」

 あくびしながら、うなずいた。まったく、生真面目な妹だ。

 

 

 この家では、脱いだ服はそのまま洗濯機に入れることになっていた。ただし、靴下や汚れのひどいもの、色落ちしそうなものは脱衣カゴに入れ、あとから分けて洗濯する。

 優等生の美沙は「パパと美沙の服を一緒に洗濯しないで」とは言わないので、母親も洗濯の回数を減らせて助かっていただろう。文句を言ったのは一度だけ、母親が間違えて美沙のブラウスと父親の靴下を一緒に洗ったときで、それもかなり控えめだった。

「パパのだからじゃなくて、できれば、やっぱり靴下は別のほうがいいと思って……」

 洗剤を入れて洗濯機をスタートさせ、和室の布団を庭に持ち出し、塀に引っかけて日に当てると、手が空いた。

 キッチンへ行って、料理をしている美沙に言った。

「家事なんかするの、すげー久しぶりだよ」

 美沙は振り向いて微笑み、

「なるべく二人で協力しようね。そしたら早く片付くじゃない?」

「ま、しょうがねーな。とりあえず、居間から掃除始めてもいいか」

「うん。お願い」

 物置から掃除機を出しながら、陽祐は、ふと思った。

 シャワーのときは一緒について来てほしいと美沙は言ったけど、料理と、掃除や洗濯とで手分けしている間、離れているのは平気なんだな。

 理屈ではないのだろう。シャワーについて来てと言ったのは、甘えただけかも。

 四六時中、怯えて泣いて世話を焼かされるよりはマシだろう。

 陽祐は居間に戻って、掃除を始めた。

 

 

 朝食のあと、陽祐は洗い上がった服やタオルを洗濯機から引っぱり出して、カゴに移した。両親の服まであったのは、きのう洗濯していないからだ。

 洗濯当番が自分でよかったと、陽祐は思った。父親や母親がおととい着ていた服を見たら、二人が消えたことを思い出して、美沙が悲しむかもしれない。

 女物の下着もあった。妹のものと母親のもの。自分の下着はいつも母親に洗濯させているのだし、意識しても仕方がないと思って、無造作につかんでカゴに放り込む。

 二回目の洗濯をセットしてから、洗い上がったものを抱えて、庭に出た。一枚ずつハンガーにかけて、物干し竿に吊るしていく。天気がいいので、すぐに乾きそうだ。

 家の中に戻って、掃除の続きをした。サンドイッチを完成させた美沙も途中から手伝った。最後は二人で二回目の分の洗濯物を干して、一通りの仕事が終わった。

 美沙は「ふうっ」と満足げに吐息をついて、にっこりした。

「これで出かけられるね」

「練習のつもりで、車で行こうぜ」

 陽祐は両親の寝室を掃除したときに持ち出した車の鍵を、ちゃらりと振ってみせる。

 美沙は苦笑いして、

「絶対、安全運転ね。お巡りさんがいなくても制限速度守ってね。それが一番、安全なんだから」

 

 

 バスケットと水筒を提げた美沙を門の外で待たせて、陽祐は車に乗り込んだ。

 父親がどうやっていたか思い出しながら、キーを差し込み、エンジンをかける。

 あっさり始動した。さすがオートマ。

 美沙が何やら手ぶりをしている。肩から脇腹へ手を動かして、何やってんだ?

 窓を開けて顔を出し、たずねた。

「何?」

「お兄ちゃん、シートベルト」

 本気か、おまえ? 世界が元に戻ったら、婦人警官になるといい。

 右がアクセル、左がブレーキ。それくらいはゲーセンのレースゲームで学んでいる。

 ブレーキを踏んだままギアを『D』に入れて、ハンドブレーキを下ろし、ペダルから足を離す。

 そろそろと、車が動き出した。おーっ、すげー。

 しかし、直進したままでは向かいの家に突っ込んでしまう。どこかのタイミングで、ハンドルを回さないと。ゲーセンではもっと広いコースを走ったけど、狭い車庫から車を出すのとは、感覚が違う。

 えいっとばかりハンドルを右に回した。

 ――がりっ。

 不吉な音がした。

「あーっ!」

 美沙が声を上げ、陽祐を睨んだ。

「お兄ちゃんっ!」

「気にするな。来年買い替えるとオヤジが言ってた」

 陽祐は苦笑いする。

 とにかくも車庫から車を出した。いったん降りて確かめてみると、右側の後部座席のドアに大きく引っかき傷ができていた。

「本当に大丈夫なの、お兄ちゃん?」

「だいじょぶ。こんな狭いところは、もう通らない」

 たぶんな。

 しっかりシートベルトを締めた美沙を助手席に乗せて、陽祐は車を発進させた。

 走り出してしまえば、何も問題なかった。エアコンはつけず、窓を全開にして走る。そのほうが気持ちいい。

「お兄ちゃん、信号」

「んなもん無視」

「練習でしょ? 元の世界に戻ったときのために、信号は守る習慣つけたほうがいいよ」「わかりましたよ、婦警さん」

 にやりと笑って、陽祐はブレーキを踏んだ。

 美沙が怪訝な顔できき返す。

「フケイって……警察の?」

「おまえは生真面目だから警官向きだと思ってさ。成績優秀だから、キャリアかな」

「…………、美沙だって……」

 美沙は、うつむいた。

「ときどき、自分の性格が嫌になるよ。真面目なんて言われても、褒められてるとは思えないし」

「……すまん」

 謝る陽祐に、美沙は首を振る。

「お兄ちゃんが悪いわけじゃないから。悪いのは美沙の性格」

 気まずい沈黙が流れた。

 信号が青になって、陽祐は車を出した。

「音楽でも聴くか」

 と、MDのスイッチを入れる。

 父親がセットしたらしいジャズが流れた。

「違う曲がよければ、そこ開けると入ってるから」

「……これ?」

 美沙は助手席の前のグローブボックスを開けた。

「よくわかんないけど、ジャズばかりみたい。タイトル見ると」

「オフクロのが入ってねーかな? ユーミンとかサザンあたりだけど」

「あった。替えるね」

 美沙がMDを入れ替えた。去年か一昨年あたりのヒット曲が流れ始めた。

 曲にあわせて美沙が口ずさむ。どうやら機嫌を治したらしい。

「……おまえ、意外と声、いいんだな」

「えっ? 意外とって何、褒めてないよ」

 苦笑いする美沙に、陽祐も笑って、

「世界が元に戻ったら、漫研の声優、手伝ってやれ。やってみたら、きっと楽しいだろ」「うん、そうするね」

 美沙は微笑んだ。

 世界が必ず元通りになると、信じているように。

 

 

 堤防の下に車を停めて、草の斜面を二人で登った。

 川を見下ろし、並んで腰を下ろす。

 少し風があったが、むしろ心地よい。草はなびき、水面はきらめく。

「静かだね」

 美沙が言って、陽祐はうなずいた。

「ああ。誰もいないからな、俺たちのほか」

「そっか……」

「人間も動物もいないけど、木や草があって、風や水が流れて。いまが一番平和かもしれねーな、人類が生まれて以来の何万年かで」

「人間はいないほうがよかったってこと?」

「地球にとっては、そうかもな。だから、みんな消えちまったのかも」

 陽祐は寝転がって、空を見上げた。雲が流れていく。

 美沙も隣に座ったまま、雲を見送って、

「……そこまで難しい話じゃ、ないんだけど……」

「ん?」

 きき返す陽祐に、美沙は首を振り、

「なんでもない」

「……おまえの言う通り、難しい理由はないかもな。世界中で、俺たち二人だけが残ったことに」

 陽祐は眼を閉じた。

「世界中の人間が消えたのも、俺たちだけが残ったのも、全てが偶然で。そこには地球とか神様の意思も介在してなくて。そうじゃなきゃ、人選を間違えてるだろ? ノアの箱舟をやりたかったにしても、兄と妹だけ残して、どうしようってんだ?」

「…………」

 美沙が、陽祐の手を握った。

 眼を開けた陽祐に、微笑みかけて、

「夏休みをくれたのかもしれないよ、神様は。何万年もの間、前に進むことだけを考えてきた人類に、少し立ち止まって休んでみろと」

「それでも人選の間違えだな。俺たちなんか、人類の進歩とか発展に大した貢献もしてないだろ。学校や受験の勉強に追われてるくらいで」

「お休みは、みんな交代でもらえるのかも。次はママとパパの番じゃないかな」

「そうだったとして……おまえは、俺と一緒でよかったか、せっかくの夏休み?」

「お兄ちゃんは?」

「俺は……」

 陽祐は、わざと眼を雲に向けて、

「悪くねーと思うよ、こういうのも」

「美沙も、悪くないと思う」

 美沙の手に、ほんの少し力がこもる。

 しばらく、そのまま手をつないでいた。

「……さて」

 陽祐は、体を起こした。

「サンドイッチを、頂くとしようか」

「うん」

 美沙は傍らに置いたバスケットを探り、二切れずつラップで包んだサンドイッチを陽祐に差し出した。

「はい」

「どうも」

 美沙はバスケットに入れて来た紙コップに、水筒のアイスティーを注いで、渡してくれた。よく冷えたところに、ほんのり甘みが利いていた。

 もちろん、サンドイッチも悪くない。

「……あしたは、もっと遠出するか?」

 陽祐が言うと、美沙は眼を輝かせた。

「海は? 子供の頃から、ずっと行ってない」

「でも、泳いだあとシャワーが出なかったら悲惨だからな。まともに使えるかな、誰もいない海の家のシャワーなんて」

 ハムサンドを食べながら、しばらく考えて、

「川はどうだ? ガキの頃やっただろ、家族で山奥の川に行って、バーベキュー?」

「いいね、やろうやろう」

 美沙は嬉しそうに言った。

 

 

 堤防からの帰りに、そのまま駅の近くのスーパーへ向かった。

 駐車場の外に車を停めて、二人で通用口を探したが、店の裏手で見つけたそこは、しっかり鍵がかかっていた。

「だめみたいね。お野菜は、よそで手に入れるしかないか」

「あきらめきれるか。バーベキューがかかってるんだ」

 陽祐は、にやりとして美沙の顔を見た。

「これから俺がやることに、眼をつむれ」

「え……?」

 きょとんとして美沙は兄の顔を見つめる。

 車に戻った陽祐は、美沙には車に乗らず離れた場所で見ているよう命じた。

 車をいったん前に出して切り返し、お尻をゲートバーの閉じた駐車場の入口に向けて、ギアを『R』に入れ、アクセルを踏み込む。

「――お兄ちゃんっ!」

 美沙が叫んだのは無視。

 車はバーをへし折って、駐車場に入った。

 そこでいったん速度を落とし、店の入口の前までバックで進む。

 あきれた様子で見ている美沙に、にやりと笑いかけると。

 陽祐はアクセルを踏み込んで、入口のガラス戸にバックから車を突入させた。

 ガラスの砕ける派手な音がして、続いて防犯ベルがけたたましく鳴りだした。

 だが、これで人が通れるようになった。車を入口の外に出して、エンジンを切り、トランクを開けておく。

 ここなら店から持ち出した荷物を積み込むのにも楽だ。

「お兄ちゃんの普通の生活って、こういうこと……?」

 そばまで来て怖い顔をしている美沙に、陽祐は悪びれずに笑ってみせた。

「調子に乗りすぎたのは反省してる」

 

 

 ベルが鳴っているのは入口付近だけで、店の奥に進めば気にならなくなった。店内は半分明かりが消えていたが、商品を選ぶのに支障はない。

 二人で一台ずつショッピングカートを押して、三階の雑貨とレジャー用品の売場から回ることにした。

 バーベキューセット、ビーチパラソル、折り畳み式のテーブルとチェア、それにアイスボックスまで載せると、二台のカートがいっぱいになってしまった。

「いったん車に戻って、この荷物を置いて来ようぜ」

 陽祐が言うと、

「待って、これも」

 と、美沙が荷物の一番上にビーチボールを積んだ。

「浮き輪はいらないのか?」

 陽祐がからかうと、美沙は面白いように口をとがらせた。反応がストレートだ。

「美沙だって、泳げるもん」

「水に顔つけられるのか?」

「当たり前でしょ、それくらい」

 美沙は怒ったように言ったが、すぐに恥ずかしそうに、

「……息継ぎは、ちょっと難しいけど」

「俺が水泳始めたとき、おまえも一緒にスクール通えばよかったのにな」

「お習字の日と重なってたんだよ。お兄ちゃんと違う日に行くのは嫌だったし」

「曜日が一緒でも関係ないぜ、どうせ男女別のレッスンなんだから」

「関係あったの、当時は」

 美沙はふくれ面をする。まるでブラザー・コンプレックスだが、それを言うとさらに怒らせそうなので、逆に機嫌をとっておくことにした。

「おまえがその気あるなら、泳ぎを教えてやるよ」

「本当?」

 美沙は笑顔を輝かせた。

「じゃあ、あしたから、さっそくね。約束ね」

「ああ」

 陽祐は笑ってうなずく。指切りしようと言い出すほどは子供じゃなくて、安心した。

 

 

 一階に降りると、防犯ベルが鳴りやんでいた。

「誰か止めたのか、まさか?」

 あたりを見回す陽祐に、美沙が、

「一定の時間で自動的に止まる仕組みじゃないの?」

「警備員が駆けつけて来るなら、それでも構わなかったんだけどな」

 深く考えないことにした。スーパーにはこれから何度も来ることになるだろうから、いつまでもベルが鳴っていては、うるさいばかりだ。

 バーベキューセットその他の荷物を車のトランクに積み込み、空になったカートを押して店内に戻る。

 エレベーターで、今度は二階の衣料品売場に上がった。

「お兄ちゃん、自分の水着、選んで来て。美沙もちょっと見て来るから」

 美沙は言うなり、その場にカートを置いて、婦人服の売場へ駆け出した。

 シャワーはついて来てほしかったのに、ここではぐれるのは平気なのか? いよいよ甘えていただけだな、きのうの一件は。

 陽祐は美沙のカートをエレベーター前に残し、自分のカートだけを押して、紳士服売場へ行った。

 水着を選んだついでに、普段着用にTシャツと短パンを何枚か手に入れた。棚ごとごっそり頂戴してもいいけど、持って帰るのが邪魔になる。

 近くにサングラスのコーナーも見つけて、一番高いブランド品を自分の分と美沙の分、頂いておいた。ドライブには必需品だろう。

 まだ美沙が戻らないので、婦人服の売場へ行ってみた。紳士服売場の倍近い広さだ。

 水着のコーナーはどこか、きょろきょろ見回しながら歩いていると。

 ――え?

 視界の端を横切る人影があった。

 カーテンが開いたままの試着室の鏡に映ったのだ。学校の制服みたいな紺色のブレザー姿に見えた。

 ――麻生?

 何故そう思ったのか、わからない。高校のブレザーは、紺ではなくグレーだ。

 鏡に映った人影が通り過ぎたはずの場所を振り返る。

 浴衣姿のマネキンが立っていた。紺色の浴衣だった。

 これを見間違えたのか?

 辺りを見回す。誰も歩いてなどいない。

 もう一度、マネキンを見る。

 紺のブレザーといえば、中学の制服がそうだったけど……

「おまたせー」

 手提げ袋を手に、にこにこ顔の美沙が戻って来た。

「どうしたの? 浴衣?」

「ああ……」

 陽祐は頭を掻く。きっと錯覚だろう。

 それより、麻生で思い出した。二年前の盆踊りの夜の、彼女の浴衣姿。

「うちのばあちゃんって、こういうの仕立て、できるのかな?」

「洋裁は得意だと聞いたことあるけど、浴衣はどうかな。でも、なんで?」

「スーパーで売ってるやつより、もっといい浴衣が欲しいと思わねーか?」

 陽祐が言うと、美沙は、きょとんとした顔をした。

「着てほしいの?」

「いや、おまえが着たいかと思ったんだけど……」

 自分でも何を言っているのかと、陽祐はあきれてしまった。

 美沙がどんな浴衣を着たところで、見せる相手は兄しかいないのだ。

 とはいえ、それは美沙がじっくり選んで来た水着も同様だ。

 たとえ兄しか見ていない前でも、可愛い格好をしたいものなのかね?

「うちにあるよ、いい浴衣。ママのやつだけど、美沙にくれると言ってたの」

 美沙は言って、小首をかしげ、

「今度、着てみせようか?」

「そのうち、盆踊りのときでもな」

 陽祐は素っ気なく答え、カートを押してエレベーターに向かって歩きだす。

「盆踊りって、お兄ちゃん、今年は一緒に行ってくれるの?」

「えっ?」

 足を止めて振り返った。

 微笑んでいる美沙に、眉をしかめて、

「いや……そうだな。世界が元に戻ったら、行ってもいいな……」

 妹と一緒に盆踊りに行くなんて、小学四年生のとき以来だった。それ以降は中学三年生まで友達と出かけ、二年前は麻生と一緒だった。去年は行かなかった。

 でも、今年は、世界が元に戻るのならば、妹につき合ってやってもいいと思う。

 美沙は陽祐に追いつくと、小指を立てて、にっこりとした。

「約束ね。指切り」

 結局、指切りさせられるのか。

 陽祐は苦笑いしながら、美沙と指を絡めた。

 

 

 最後は一階の食品売場だった。

 生鮮品は賞味期限がぎりぎりのようだったが、美沙が薄暗い中でじっくり顔を近づけ、状態のよいものを選び出した。

 野菜、肉、魚、卵、それに桃を二パックと、スイカ丸ごと一玉。肉と魚は冷凍して保存するので多めに確保した。米も家には残り少ないというので手に入れた。ほかには菓子や缶詰、缶ビールと、あした必要なロックアイス。

 選んだ商品を買い物袋に詰めて、入口へ戻る途中、催事コーナーに花火が置いてあることに気がついた。

「やるか、二人で花火?」

 陽祐は冗談のつもりで言ったが、美沙は素直に喜んで、

「やりたいやりたい」

 どうせやるなら、思いきり派手にやろう。陽祐は、噴き出し花火やロケット花火も大量に入手して、どこか広い場所で遊ぼうと提案した。

「また堤防に行って、川に向かって打ち込むか、ロケット花火?」

「それより、中学校は? 校庭なら広いし」

 美沙の案に乗ることにして、ごっそり花火を手に入れた。同じ売場にあったロウソクとライターも頂戴した。

 

 

 家に戻って、車は門の外に停めた。車庫入れなどできるわけがない。

 夕食は陽祐も協力してハンバーグを作り、今夜はビール抜きで食べた。再び車で出かけるつもりだからだ。

 食後のデザートは桃が出てきた。スイカはバーベキューに持って行くことにした。

 全て平らげたあと、美沙が、

「お兄ちゃん、お皿を洗うのお願いしちゃっていい?」

「いいけど……」

 陽祐が引き受けると、美沙はそそくさとダイニングを出て行った。

 何するつもりだ?

 皿を洗い終えたが、美沙は戻らない。見てない隙に、ビール飲んじまうぞ。

 パソコンを立ち上げ、地図のサイトで、あした出かける川への道順を調べた。子供の頃に父親の運転する車で出かけたきりで、うろ覚えだったからだ。

 国道から高速に乗るまでは簡単だけど、高速を降りてからが難しかった。確か、車に道路地図が積んであったはずだ。ネットの地図を印刷するより、わかりやすいだろう。

 ついでに発電所の仕組みについても調べた。この世界で怖いのが停電だった。冷蔵庫が使えなくなった場合、食料の保存が困るのだ。

 当然のことだが、火力発電所や原子力発電所は、燃料が切れれば停止する。問題は、それまでどのくらい余裕があるかだった。しかし、燃料の残量がネットで公表されているはずもない。電力会社のホームページには、原子力発電所の出力が随時表示されることになっていたが、その更新は止まっていた。

 もっとも、この世界が美沙が言うように「神様がくれた夏休み」であるなら、停電の心配なんて取り越し苦労なのだろう。

 リアルに思えて、この世界は嘘だらけなのかもしれない。兄と妹が二人きりで取り残されたこと自体、すでに嘘のような話なのだ。

「――お待たせ、お兄ちゃん」

 声をかけられ、振り向いた。

 浴衣姿の美沙が立っていた。白地に紺で朝顔を描いた、落ち着いた雰囲気の浴衣だ。綺麗に結んだ赤い帯も、当然、自分一人で着付けたのだろう。

「帯の結び方を思い出すのに時間かかっちゃったけど、せっかく花火だから。でも、盆踊りも一緒に行こうね、約束だから」

 照れたように笑う美沙を、思わず見つめてしまう。

 二年前の麻生の浴衣姿と、つい比べてしまった。

 悪くない、と思う。兄貴なんかじゃなくて彼氏に見せたほうが絶対いいだろう。世界が元に戻ったら、いい彼氏を見つけることを勧めてやろう。

 そんな空想を振り払うように、パソコンに向き直って電源を切りながら、

「さっさと出かけるぞ。花火は山ほどあるからな」

「うん」

 素っ気ない態度にも、美沙が気を悪くした様子はなかった。花火がよほど楽しみなのだろう。

 

 

 車に乗り込み、二人が卒業した中学校まで出かけた。すでに日が暮れていたので、陽祐は安全運転厳守を言い渡された。

 校門の前に車を停め、先に陽祐が門扉を乗り越えて中に入り、美沙のために門を開けてやった。浴衣姿で門扉を乗り越えるのは無理だろう。

 家から持って来たバケツに、水飲み場で水を汲んで用意したのは美沙の指示だ。火の不始末で自分の出身中学を燃やしたくないのは陽祐も同じなので、素直に従った。この世界では消防車も来てくれないことだし。

 ロウソクを地面に立てて、火をつけた。

 まずは手持ち花火だった。最初は一本ずつ楽しんでいたが、スーパーからたくさん持ち出したので、なかなか減らない。

 面倒なので、陽祐は四本まとめて火をつけることにした。

「危ないよ」

 後ずさる美沙に、陽祐は笑って、

「怖がりだな、おまえ」

 ロウソクに近づけて点火した。派手に飛び散る火花が綺麗だった。だがすぐに、

「――アチッ!」

 火の粉が腕に飛んできて、陽祐は花火を地面に投げ出した。

「大丈夫?」

「だいじょぶ……。無理して全部遊ばないで、余った花火は、持って帰ればいいな」

 そのあとは、あしたの風呂掃除を賭けてどちらが線香花火を長持ちさせられるか十本勝負で対決し(結果は陽祐の六敗だった)、最後は校庭に一列に並べた噴き出し花火とロケット花火に、陽祐が連続して点火した。

 噴き出し花火で色とりどりの鮮やかな光の壁が出来上がった。校舎の窓にも、きらきらと光が反射している。

 ロケット花火は炎の尾を引いて飛び、上空でパンパンと乾いた音を立てる。

「綺麗……」

 美沙がつぶやいた。

 その横顔をちらりと見て、陽祐も満足して微笑んだ。

 すっかり子供に戻ったように二人で遊んでいるけど、悪いことじゃないと思った。

 両親も、ほかの誰かもみんな消えて、二人きりで、この世界に取り残された。

 まともに考えたら泣き叫びたくなる。それよりは、いまを楽しんで生きたほうが、よほど前向きな態度ではないだろうか?

 

 

 花火が終わった。

 火の始末を確かめ、ゴミをまとめてバケツに入れ、校庭を横切り車へ向かって歩く。

 美沙が言った。

「夜の学校って、来たの初めて。どきどきするね、昼間とまるで違うから」

「そうだな。すっかり真っ暗だもんな」

「この世界でも、学校の怪談ってあるかな? 誰もいない音楽室でピアノが鳴ったり」

「それなら夜じゃなくて昼間でも鳴ってそうだな」

 二人でくすくす笑い合った。

「……お兄ちゃんは、前にも夜の学校、来たことある?」

「え……?」

 陽祐は思わず美沙の顔を見た。

 微笑んでいるのを見ると、深い意味はないのだろう。

「……俺は、合宿で泊まり込んだりしてたから」

「そっか。みんなで肝試しやったら、楽しそうだね」

「俺たち二人きりでやるのは、やめような」

「そうだね。むなしくなりそう」

「一番怖いのは、脅かしてもらえないまま、相手がずっと隠れてることだと思うぞ」

「それ、絶対やだ。お兄ちゃん、やらないでよ」

「やらねーよ。隠れてるほうだって怖いだろ」

 車に乗り込んだ。

 

 

 家に帰って、きのうと同様に交代でシャワーを浴びた。

 Tシャツと短パンに着替えた陽祐が脱衣場を出ると、外で待っていたパジャマ姿の美沙が言った。

「お兄ちゃんの中学の卒業アルバム、見せてくれない?」

「え……なんで?」

「なんでって、なんでも。合宿のときの写真が載ってたりしないの?」

「水泳部は集合写真が一枚きりだぞ」

「それでもいいから、見せてよ。ね?」

 にっこり笑顔で言われると、嫌とも言えない。

 二人で陽祐の部屋へ行く。陽祐は押入れを漁って卒業アルバムを引っぱり出し、美沙に渡した。

「表紙は美沙たちのと、全く一緒だね。卒業年度が違うだけで」

「そりゃそーだろ、卒業アルバムなんて」

 美沙は床に座って、アルバムのページをめくる。陽祐も隣に座って、覗き込んだ。

「あ、最初のページの、校舎と校長先生の写真まで一緒だよ。すごい手抜き」

「本当かよ? あとで、おまえのも見せろ」

「えーっ、やだ」

「やだって、なんだよそれ」

「美沙、クラス写真の撮影のとき、親知らずを抜いた次の日で、ひどい顔だから」

「面白れえじゃん、見せろって」

「やだ、絶対やだ」

「いまみたいな、ふくれ面で写ってるのか?」

 笑う陽祐に、美沙は口をとがらせて、

「ほんっと、お兄ちゃんって、ときどき意地悪だね」

「ときどきな。いつもは神様か仏様のように、やさしさに満ちあふれてるけど」

「それ絶対、嘘。それより水泳部の写真って、どれ?」

「後ろのほうじゃねーか?」

 美沙がページをめくっていくと、各部活の集合写真を載せたページがあった。

 水泳部はジャージ姿で、プールサイドで撮影していた。

「下級生も一緒なの? お兄ちゃんの代だけで、こんなに人数いないよね?」

「俺の代は四人だからな。寂しいから下級生も入れて撮ってもらったんだ」

 陽祐たち当時の三年生四人は後ろに立って、その前に二年生が六人、しゃがんで並んでいる。一年生の五人は、三年生の左右に分かれて立っていた。

「これ、お兄ちゃんだ。なんか可愛い」

 後列の男子部員の一人を指差して、美沙はくすくす笑った。

 陽祐は仏頂面で、

「しょうがねーだろ。その写真のときは、いまのおまえより年下だよ」

「美沙から見たら、お兄ちゃんはずっとお兄ちゃんだから、こんな可愛かったなんて気づかなかった」

「可愛い可愛いって、何度も言うな」

「あれ? この隣って……」

「ああ、麻生だな」

 自分の隣に麻生が写っていたことを、陽祐はすっかり忘れていた。

「この当時は、痩せてて黒くてゴボウみたいだよな。泳ぎはやたらと速かったけど」

「ふーん。なんか馴れ馴れしい。お兄ちゃんの肩に、手なんかかけて」

 美沙はページをめくってしまった。次のページは修学旅行や体育祭など学校行事のスナップだった。

「……おまえ、麻生と仲悪かったっけ?」

 たずねる陽祐に、美沙は「え?」と顔を上げ、苦笑いして、

「そんなことないよ。仲良しでもないけど。どうして?」

「いや……そんな口調に聞こえた」

「だって、馴れ馴れしいと思ったから。運動部は上下関係に厳しいもんじゃないの?」

「うちは緩やかなほうだったし、野球部みたいな厳しいところでも、記念写真のときまでは、うるさいこと言わねーだろ」

「そうなの? どっちでもいいけど」

 美沙はアルバムに眼を戻した。

「お兄ちゃん、どこかに写ってる?」

「体育祭の……いや、どこも写ってない」

「えっ、何? どこか写ってるんでしょ?」

 美沙は体育祭の写真をじっくりと眺めて、やがて一つの写真に気づき、手を打って笑い転げた。

「あはは、やだ、これがお兄ちゃん?」

 それは応援合戦の様子で、陽祐はテニス部の女子に無理やり着せられたスコート姿で、手にはポンポンを持って、頭にロングヘアのカツラをかぶって写っていた。

「可愛い、すごい似合ってる」

「もういいだろ、クソッ」

 陽祐は美沙の手からアルバムをとり上げた。

「今度は、おまえのを見せろ」

「えーっ」

 美沙は、机の上の時計を見やり、

「きょうは、もう遅いよ。またそのうちね」

「逃げるのか、卑怯者」

「そのうち見せるよ、気が向いたら」

 美沙は笑って立ち上がり、陽祐の手をつかんで引っぱった。

「さ、寝よ寝よ、お兄ちゃん。あしたはバーベキューだよ」

「しょうがねーな……」

 陽祐も渋々と立ち上がる。

 

 

 こうして、二人きりの世界の二日目が終わった。

 

 

 

 

   第五章  美沙(三)

 

 

「――お兄ちゃん、朝」

「あ……、ああ」

 美沙に声をかけられて、陽祐は布団の上で眼をこすった。外は明るかった。

 美沙が自分の布団を畳みながら、

「きょうもいいお天気。バーベキューには、ぴったりだよ。美沙は朝ごはんの仕度するから、お兄ちゃんは、お洗濯をお願い。ごはんとお洗濯が済んだら、出発ね」

「……思ったんだけど、洗濯なんかやめて、毎日新しい服を着るのはどうだ?」

「普通の生活するんでしょ? だめだめ」

「そう言うだろうと思ったけど……」

 あくびしながら体を起こし、頭を掻く。

「お兄ちゃん。二度寝はしないでね」

 あきれた顔で言い残し、美沙は和室を出て行った。

「ふぁ……、ねむ……」

 ここが夢の世界だという仮説を完全に捨ててはいないけど、夢の中だとしても、これだけ眠いということは、よほど受験勉強の疲れがたまっているのか。

 布団を畳み、洗濯機をセットしてからダイニングへ行くと、ごはんと卵スープとハムサラダの朝食ができていた。

「スープはインスタントだけど我慢して。美沙はバーベキューの下ごしらえするから、先に食べていいよ」

「了解」

「あと、きょうは土曜日で、本当は燃えるゴミの日なんだけど……」

「そっか、そういう問題もあったか」

 近所のゴミ捨て場に出しても、回収車が来ないので、いつまでもそのままだ。

「河川敷に穴でも掘って、埋めるか?」

「もう二、三日、貯めておけるから、まとめて捨てに行くのがいいかも」

「そうだな……」

 食事が済んで洗濯物を干し終えたが、まだ美沙が時間がかかりそうだったので、陽祐は自分の部屋から持って来たCDを数枚、居間のステレオでMDにダビングした。きのうの約束の風呂掃除は夜に回すことにした。

 父親も母親も、CDは家で聴いて、車にはダビングしたMDを積んでいた。陽祐も免許をとったらそうするつもりだったが、ひと足早く自分の運転でドライブする機会が巡ってきたのだ。

 やがて、二人の準備が完了した。泥棒が入ることはないだろうけど、遠出をするときの習慣になっているので、家中の戸締りを確かめてから、車に乗り込んだ。

 缶ビールはアイスボックスに入れて用意した。もちろん、スイカも積み込んだ。バーベキューセットやパラソルは、きのうから車に積んだままだ。

 サングラスをかけた兄妹は、顔を見合わせ、にやりと笑う。

 美沙は白いワンピースに着替えていた。夏らしくて悪くない格好だと陽祐は思う。陽祐自身はTシャツと短パンという普段着だった。それが一番楽なのだ。

 ダビングしたばかりのMDをセットして、陽祐と美沙は、出発した。

 

 

 国道をしばらく走ると、高速のインターがあった。ETC搭載車なので、すんなり通過できた。ほかの車がいないので、本線への合流も問題なかった。

 片側三車線の真ん中に入り、陽祐はアクセルを踏み込んだ。

「お兄ちゃん、安全運転」

「わかってる。制限速度は百キロだろ」

「百キロ?」

 美沙は眼を丸くした。

「高速ってそんなに飛ばしていいの? 嘘ついてないよね?」

「オヤジもいつもそれくらい出してただろ」

「パパはスピード違反してるもんだと思ってた」

「娘に信用ねーな、オヤジのやつ。営業だから免停が怖いんで、道交法厳守だぞ、うちのオヤジは」

 ほかに一台の車もいないところを走っているとスピード感がなくなるので、陽祐はときどきメーターに眼をやって、いまの速度を確かめた。

 美沙が何も気づかないようなので、こっそり百十キロまで上げていたけど。

 やがて、辺りが田園風景に変わった。

 青々とした水田を見やって、陽祐は言った。

「これ、誰も刈り取りに来ないんじゃ、もったいねーな」

「秋になったら二人で日本中、稲刈りして回る?」

「俺たちが食う分だけでも刈り入れておきたいな。そのうち肉や魚が食えなくなったら、米と野菜で腹いっぱいにするしかねーし」

 目的地まで半分来たところのサービスエリアで、休憩することにした。

 車を降りてサングラスを外し、「んーっ」と伸びをした陽祐は、

「便所行って来るから、待っててくれるか」

「……美沙、ついて行っていい?」

「は?」

 あきれてきき返す陽祐に、サングラスを手に握った美沙は、恥ずかしそうにうつむき、「入口のところで待って、お兄ちゃんのほうは見ないようにするから」

「勘弁しろよ。家ではそんなこと言わねーじゃん」

「家とは違うよ。こんな遠いところに来たんだもん。それに……」

 美沙は泣きだしそうに、顔を赤くした。

「本当は、家にいるときも、一秒だって離れていたくないんだよ」

「…………」

 陽祐は、ため息をついた。

「わかった。ついて来い。その代わり、俺がションベンしてる間、うしろ向いてろよ」

「……うん」

 美沙は、うなずいた。

 

 

 用を済ませて男子トイレを出た陽祐は、あとについて来た美沙に、

「おまえはいいのか?」

「あ、うん。それより、お兄ちゃん」

 美沙は、売店を指差した。

「おみやげ見ていこうよ」

「みやげなんて、誰に持って帰るんだよ?」

「自分たちにでも、いいじゃない。せっかく来たんだから、ね?」

 そんなの帰りでいいだろうと思ったが、帰りは余計に面倒くさくなっているかもしれないので、仕方なくつき合うことにした。

 売店に入って、置き物やマスコットの類を、美沙は興味深そうに見て回る。そんなもので喜んでいるのは、やっぱり子供だと陽祐は思ったけど、口には出さない。

 陽祐は菓子のコーナーへ行き、どこのサービスエリアでも売っていそうなクッキーやまんじゅうを物色した。

「……そっか。牛もニワトリもいなければ、牛乳も卵も手に入らないから、クッキーなんか食えるのも、いまのうちなんだな」

 そう考えると、ありったけの菓子を持って帰りたくなった。

 妙に可愛くデフォルメされた、牛乳瓶を抱えた牛のぬいぐるみを手にした美沙が、

「ほんとに菜食主義者になるしか、なさそうだね」

「あしたは図書館でも行って、農業の研究するか」

「入口は閉まってると思うけど……またガラスを割って、入る気だよね?」

 美沙は苦笑いする。

 陽祐は一通りの菓子を一箱ずつ持ち帰ることにした。美沙は蕎麦とうどんを選んだ。

「さっきのぬいぐるみは、いいのか?」

「うん。あの子は、元の世界に戻れたときに、また機会があれば」

「いま連れて帰っても、いなくなっちまうってのか?」

「わかんないけど……ここがお兄ちゃんの言うような実験空間なら、そうかなって」

 みやげを抱えて車に乗り込み、再び出発した。

 高速を降りたところにスタンドがあったので、満タンに給油した。

 ここからは、地図の出番だった。残念ながら父親の車にはカーナビがついていない。

「おまえは地図……読めないよな?」

 たずねる陽祐に、美沙は苦笑いして、

「ごめん。美沙が見てもお兄ちゃんを怒らせるだけだと思う」

「どこかのカー用品店から頂いて来ればよかったな、カーナビ」

「すっかりタダで手に入れる発想になってるね……」

 美沙には地図を広げるだけの役目をさせて、陽祐は実際の風景と見比べながら車を走らせた。

 迷いかけたときには、すぐに車を停めて引き返す。ほかに車がいないので、ふらふら走っていても文句は言われない。

 目的地が近づくにつれて、子供の頃に来たときの記憶が甦ってきた。

 山に入ってからは一本道になり、急カーブに気をつけるだけでよかった。

 周囲は鬱蒼とした森で、ここが動物が消えた世界でなければ、熊でも出そうだ。

 目的地の沢の入口を知らせる案内標識があった。

 陽祐は標識に従って、細い脇道に車を入れ、徐行運転で坂を下った。

 やがて視界が開けると、目の前に渓流があった。

 

 

 河原より一段高い駐車場に車を停めて、何度か往復して荷物を運んだ。

 まずは二人で浅瀬に石を積んでダムを作り、スイカを冷やす。

 続いてバーベキューセットを組み立てて、火を起こす。

 火の番は美沙に任せておいて、陽祐はパラソルを立て、その下にチェアを二つ並べる。アイスボックスも日が当たらないようパラソルの下に置いた。

 バーベキューセットのそばにテーブルを広げて、紙皿や紙コップ、焼肉のタレなどを並べた。その間、美沙は野菜を焼き始めている。

 アイスボックスから缶ビールを出し、二つのコップに注ぎ、一つを美沙に差し出した。「美沙はいいや。酔うと動けなくなりそうだから」

「なら、俺が飲んじまうぞ」

「お兄ちゃんも、ほどほどにしてね。あとで美沙に泳ぎを教えてくれるんでしょ?」

 そういえば、そういう約束だった。

 美沙には代わりにコーラを注いでやり、陽祐は焼き網に肉を並べ始めた。

 すぐに、いい匂いを立てて肉が焼けた。

「お兄ちゃん、食べ始めていいよ」

「おまえから食えよ。ほっといても俺は食うんだから」

「そう……?」

 美沙は遠慮がちに肉をとり、紙皿に出した焼肉のタレをつけてから、口に運ぶ。

「……おいしい」

 そう言って、にっこり微笑んだ。

「やっぱ、焼きたては最高だよな」

 陽祐も笑って、自分の肉をとり始める。

 だが、バーベキューに来ても、美沙の少食は相変わらずだった。

「せっかくだから、もっと食えよ」

 勧める陽祐に、美沙は恥ずかしげに笑って、

「でも、このあと泳ぐし」

「泳ぐから食わなきゃならねーんじゃんか」

「じゃあ、もうちょっとだけ」

 そう言いながら、野菜ばかり何切れか皿にとっている。

 陽祐はあきれて、

「ほんとに少食だな。無理に我慢して食わないようにしてるんじゃねーよな?」

「無理してないよ。おなかいっぱいなんだよ、ほんとに」

 美沙は苦笑いする。

「普段あまり食べないからかもしれないけど。ママを見てると、きっと食べたら太っちゃう体質だと思う、美沙も」

「食わねーで痩せようなんて不健康だぞ。よく食って、よく運動すること。この夏の目標に決定な」

「うーん、どっちも苦手だなあ……」

 肉と野菜を平らげたあとは、スイカの登場だった。

「でも、包丁忘れちゃった。どうしよう……」

「しょうがねーな。ちょいと河原を汚すことになるけど、スイカだし自然に還るだろ」

 陽祐はスイカを抱え上げると、大きな石の上に叩き落した。

 割れたスイカを手で小さく分けて、ひと切れを美沙に渡す。

「おなかいっぱいで、全部は食べきれそうもないね」

「俺が食うよ。残ったらアイスボックスに入れて持ち帰ってもいいし」

 結局、陽祐ばかり腹いっぱいに食べたあとは、パラソルの下で休むことにした。

「美沙、いまのうちに着替えてきちゃうね」

 ビールも飲まなかったのに、何故だか赤い顔をして美沙は言う。

「どこで着替えんだ?」

「あっちの岩場の陰とか。ずっと話しかけてるから、お兄ちゃん、返事してね」

「了解」

 声さえ聞こえていれば、一人になっても安心ということだろう。

 岩陰に回った美沙が、さっそく呼びかけてきた。

「お兄ちゃーん、ビーチボールふくらませておいてー」

「あー、わかったー」

 まったく注文が多い。

「バーベキューとスイカ、おいしかったねー」

「そうだなー」

 返事をするには、いちいち空気を吹き込むのを中断しなければならない。

「泳ぎは、何を教えてくれるのー?」

「まず、バタ足からだな。俺もこっちで着替えちまうから、声かけるまで戻るなよ」

「わかったー。でもちゃんと返事してー」

「甘えてるな、こりゃ完全」

「なんか言ったー?」

「なんにもー」

 

 

 着替えを終えた陽祐は、美沙に声をかけた。

「もういいぞー」

 ひょこっと、岩陰から美沙が顔を出す。

「笑ったり、ばかにしたりしないでね」

「しねーよ」

 よほど子供っぽい水着なのだろうか?

 ところが、恥ずかしげに姿を現した美沙は、ビキニ姿だった。

「お……」

 言うべき言葉が見つからない。

 華奢な体つきの美沙だが、意外と出るべきところは出ていた。色白の肌に、オレンジ色のビキニが映えている。

 眼の毒というほかなかった。何しろ、相手は実の妹だ。

「泳ぎの練習には不向きかな? お兄ちゃんに教えてもらえると思わなくて……」

 頬を赤らめながら言う美沙に、

「本格的にやるわけじゃねーから大丈夫だろ。じゃ、始めるぞ」

 陽祐はさっさと背を向けて、水辺に向かい歩きだす。耳が熱くなっていた。

 とはいえ、泳ぎはちゃんと教えてやるつもりだ。

 ひんやりと心地いい水に、膝まで入っていき、

「結構つめてーからな。まずは身体を慣らせ。ぱしゃぱしゃ腹とか肩に水をかけたらいいんじゃねーか?」

「うん」

 美沙は陽祐の隣に並んで、言われた通りにした。

「……ひゃっ、ほんとに冷たくて、気持ちいいね」

 水をかけた胸元を押さえて笑う仕草は、妹だと思うと余計、どきりとさせられる。

「足元、とがった石があるかもしんねーから気をつけろよ。もう少し深いところに行くから、ゆっくりついて来い」

 腰の深さまで水に入って、陽祐は言った。

「まず、おまえの実力を見るから。俺は少し下流に行くから、そこまで泳いでみろ」

「わかった……」

 陽祐はクロールで軽く泳いで十五メートルほど離れて、美沙を振り返った。

「いいぞ」

「……うん」

 美沙は思いきったように水に顔をつけ、ぎこちなく危なっかしいクロールを始めた。

 腕はろくに水を掻いてないし、脚も意味なく水を撥ね上げているだけだし、溺れているのと大差なく見えた。

 息継ぎも失敗して水を飲んだらしく、陽祐のところまで来られずに、

「――けほっ!」

 足をついて顔を上げ、咳き込んだ。

「……ごめんなさい」

「謝ることねーよ。そんなもんだと思ってたから」

 陽祐は美沙のそばへ歩いていき、

「やっぱり、バタ足から始めるか。俺の手につかまって、身体を伸ばしてみろ」

「うん」

 美沙は両手を陽祐に預けて、水の中で身体を伸ばした。

「お尻が沈んじゃうよ……」

「沈まないようにバタ足するんだけどな。足の甲からつま先まで伸ばして、脚全体で水をキックするイメージだ。膝は曲げずに伸ばして、かといって力が入りすぎてもダメだ」

「難しいよ、そんなの」

 眉をしかめる美沙に、陽祐は苦笑いして、

「最初のうちは、それっぽくできればいいよ。慣れてくればビート板で、すいすい進めるようになって楽しいから」

「そっか」

 美沙は、にっこりした。

「お兄ちゃんにこうやって教えてもらえるだけでも、楽しいよ」

「楽しいも何も、始めたばかりだろ。ほら、膝が曲がってる」

「あ、ごめんなさい」

 楽しそうに笑って、ぱしゃぱしゃ水を蹴っている美沙に、陽祐は苦笑するしかない。

 結局、美沙は子供なのだと、陽祐は思った。

 世界中の人間が消えて、二人きりで取り残されたせいもあるだろう。幼稚園か小学生の頃そのままに、兄に甘えたがっているのだ。

 高校一年生でこれでは、困りものだけど。世界が元に戻ったら、本当に彼氏を見つけてほしいと思う。できれば年上で、存分に甘えさせてくれる相手がいい。

 ぽつりと、頬に何かが当たった。

 ぽつっ、ぽつっと、肩や背に続けて当たる。

「……雨か」

 陽祐は空を見上げた。太陽は出ているが、二人がいる川の上空だけ、暗い雲に覆われている。

「すぐにやむだろーけど、いっぺん上がるか」

「うん」

 二人はパラソルの下に戻った。

 陽祐はチェアに腰かけて、タオルで身体を拭いた。

 美沙は自分のチェアを、陽祐のすぐ隣にずらして来た。

「えへへ」

 子供っぽく笑うと、陽祐の腕に抱きつき、その肩を枕にして、頭をもたせかける。

「……おい」

 あきれる陽祐に、美沙は笑顔のまま、

「いいでしょ、いまだけ」

「子供だな、ほんとにおまえ」

「子供だよ。本屋で中学生に間違われたって言ったでしょ」

 中学生でも兄貴にここまで甘えるものだろうかと、陽祐には疑問だったけど。

「先に身体くらい拭けよ。冷えちまうぞ」

「だいじょぶ。いまは暑いくらい」

 ぱらぱらと、雨はパラソルを叩いている。

 仕方ない、しばらくそのままにさせてやるかと、陽祐は思った。

 

 

 ――いつの間にか、「それ」はそこにいた。

 対岸の木立の間から、顔を覗かせていた。

 

 

 陽祐は、眠ってしまったらしい美沙の腕を、軽く揺すった。

「おい」

「え……?」

 顔を上げた美沙に、声をひそめて言う。

「その場から動くな。怖かったら、俺にしがみついてろ」

「何のこと……?」

 辺りを見回した美沙もまた、「それ」に気づいて、

「……ひっ……!」

 息を呑んだ。

 世界中の人間も、動物も消えた世界。

 そこに、いるはずのない存在だった。世界がいまのようになる前でも、日本に「それ」はいなかったはずだ。

 真っ黒な毛並み。爛々と輝く、黄金色の眼。

 狼だった。木々の間から、こちらを見据えていた。

「なんで……?」

「知るか。くそっ……!」

 陽祐は舌打ちする。

 武器になるようなものはなかった。

「それ」が本当に狼なのかどうか、わからない。本物の狼など見たことがない。昔、図鑑で見たニホンオオカミの剥製の写真は、犬とどうちがうのかわからなかった。

 だが、ファンタジー漫画やRPGに登場する狼のイメージには、ぴったりだった。

 向かいの家のラブラドールよりも、ひと回り以上、身体が大きく。

 悪意の塊のような眼を、陽祐と美沙に向けている。

 逃げるわけにはいかなかった。背中を見せれば途端に襲いかかって来る予感があった。 それに、もちろん、美沙を守らなければならない。

「それ」との間には川がある。川に入ることには、「それ」にもためらいがあるだろう。こちらに隙を見せることになるからだ。

 睨み返してやった。不思議と恐怖はなかった。これも現実感のなさのせいか。

 人間が消えた世界に現れた、日本から姿を消したはずの狼。

「……世界を、終わらせに来たんだ……」

 美沙がつぶやいた。

 ……何? 何て言った、おまえ?

 思わず陽祐は、美沙の蒼ざめた顔を見る。

 隙ができたと見てとったのか、狼は低く唸りながら、水辺まで下りて来た。

 だが、そこから川に入るのは、まだ、ためらっている。

 陽祐は足元のアイスボックスに手を伸ばした。

 蓋を開け、まだ冷たいままの缶ビールを一本、手にとった。

 視線は狼に向けたまま、三五〇ミリリットル入りの缶を振る。

 美沙の手を振り払って素早く立ち上がり、プルタブを引いた。当然のようにビールが噴き出した。

 その缶を、狼に向かって投げつけた。

 白い泡を吹き散らしながら、ビール缶が宙を飛ぶ。

 狼は素早く方向転換し、木立の間に駆け込んだ。

 ビール缶は対岸の水辺に落ち、泡を吹きながらバウンドして、砂利の上に転がった。

 狼は姿を消したきりだった。

「……はあっ」

 陽祐は、大きく息を吐いた。

 妹を振り返る。

 美沙はチェアに腰かけたまま凍りついたように、対岸の狼が消えた辺りを、じっと見つめていた。

 

 

 バーベキューセットやパラソルなどの荷物は放置して、陽祐は河原から引き上げることに決めた。脱いだ服だけ回収したが、着替えている暇はない。

 押し黙ったままの美沙の腕をつかんで無理やり立たせ、駐車場まで引っぱっていく。

 助手席に押し込んで、ドアを閉めた。自分も運転席に回って、車に乗り込む。服は後部座席に放り投げた。

 エンジンをかけ、パワーウインドウで窓を全て閉めながら、周囲を見回す。

 狼の姿は、ない。

 シートベルトは気にせず、車を出した。脇道を登って、元の山道に戻り、来た方向へ引き返す。

 雨はやんでいる。いや、この辺りは最初から降らなかったのか。路面は乾いている。

 よほどの化け物でなければ、車に乗った自分たちを襲ってくることはないだろう。

 そう思っても、早くこの場から離れたかった。できるだけ遠くへ。

 いまごろになって狼への恐怖が湧いてきた。あいつが本気で襲って来たら、美沙を守りきれただろうか?

 恐怖を振り払うように、陽祐は美沙に言った。

「世界を終わらせに来たって、どういう意味だ?」

「…………」

 答えない美沙の顔を、ちらりと見る。

 美沙は蒼ざめた顔のまま、まっすぐフロントガラスに眼を向けている。

 その眼には何も映っていないように思えた。

 陽祐は舌打ちした。

 狼が怖かったにしても、この反応はなんだ?

 帰りは奇跡的に迷わず、高速に入ることができた。

 アクセルを踏み込む。二十キロオーバーくらい許されるだろう。

 もう一度、美沙にたずねた。

「狼が、どうやって世界を終わらせるんだ?」

「……お兄ちゃん、観たことない? 何度かテレビでやった、ファンタジー映画」

 美沙は、陽祐には記憶にないタイトルを口にした。

「その映画は、おとぎ話の世界が舞台だけど、世界を滅ぼそうとする悪の手先が、黒い狼なんだよ」

「映画に出て来た狼に、さっきのあいつがそっくりだってことか?」

「…………」

 美沙は、うなずく。

 だとしたら、この世界も「おとぎの国」で、それを滅ぼそうとする悪の存在がいるってことか?

 兄と妹が取り残されたこの世界自体が悪の存在の手で作られたようにも、陽祐には思えたけど、それとも。

「まさか、あの狼が、世界中の人間を喰ったわけじゃねーよな?」

「…………」

 再び、美沙は口をつぐんだ。今度はうつむいて、唇を噛み締めている。

 美沙が言ったのは、ただの思いつきかもしれない。

 原因不明のまま世界中の人間が消えたのとは逆の現象で、黒い狼も原因は不明のまま、別の世界からこの世界に紛れ込んだだけなのかもしれない。

 でも、そうじゃなければ。

 狼の正体が、美沙の言う通りだとしたら。

 やはり、世界中の人間が消えたのは偶然ではなく。あるいは、自分たち兄妹がこの世界に放り込まれたのは、偶然ではなく。

 狼とは対極にある、何らかの存在の意思が働いているのだろうか。

 ――考えたって、わかるわけねーけど……

 行きに寄ったサービスエリアの前まで来た。陽祐は中には入らず、入口の手前で車を停めた。

 車を降り、後部座席から美沙のワンピースをとって、助手席のドアを開ける。

「これ、上に着ておけよ」

「…………」

 美沙は眼を合わせないまま車から降りて、陽祐が突きつけたワンピースを受けとり、のろのろと身に着ける。

 ため息をついて、陽祐は辺りを見回した。

 狼はいない。ほかの動物も人間もいない。

 サービスエリア内に植えられた立ち木の枝が、風に揺れているのが見える。

 今朝までと同じ、平和そのものの光景。

 だが、この世界も完全に平和ではないことを、陽祐は知ってしまった。

 ワンピースを着終えた美沙が、無言のまま助手席に座った。

 ドアを閉めてやり、陽祐は運転席に乗り込み、車を出した。

 家に帰り着くまで、美沙は黙り込んだままだった。

 

 

 家の前に車を停めた。

 陽祐は助手席に回って、ドアを開けてやった。

「……ありがとう」

 ようやく美沙は言葉を発し、車を降りる。

 陽祐は水着姿のままだが、家に着くまでの間に身体は乾いていた。

 車のキーと一緒にキーホルダーについていた父親の鍵で、玄関のドアを開ける。自分の鍵は後部座席に置いた服のポケットだ。あとで回収すればいいだろう。

 いまは、早く休みたい。

 どっかりと居間のソファに腰を下ろして、陽祐は言った。

「ひでえ目に遭ったな。いろいろ置いてきちまったけど、取りに戻る気にならねーや」

 足元に転がっていたリモコンを拾い、エアコンを入れる。

 窓は開ける気にならない。ここまで狼が追いかけてくることは、ないと思うけど。思いたいけど。

 眼の前に立ちつくしている美沙に、笑いかけた。

「おまえ、先にシャワー浴びて着替えろよ。下が水着のままじゃ、気持ち悪いだろ?」

「……お兄ちゃん」

 美沙は眼を上げた。

 じっと、陽祐の顔を見て、

「もし本当に、きょうで世界が終わるとしたら、お兄ちゃんは何をしたい?」

 口をきいたと思ったら、おかしなことを言い出した。

 あきれながらも、陽祐はきき返す。

「この世界が終わったら、元の世界に戻れるという前提か?」

「この世界も元の世界も……みんな、終わっちゃうとしたら」

「最後にやりたいことなんて、思いつかねーな」

 陽祐は言って、首をかしげた。

「海外旅行は一日じゃ無理だし、もう何日か余裕があったとしても、交通手段がない。この世界にはもちろんないし、元の世界にいたとしても、世界に終わりが来ることがわかったら、飛行機なんて飛ばないだろ?」

「もっと身近でできることは?」

「そうだな、旨い寿司が食いたいけど、寿司屋もやってねーだろうし」

「手巻き寿司でよければ作ってあげるよ」

「それは是非お願いしたいな。あとは、そうだな……」

 陽祐は、しばらく考えてから、妹に向かって微笑み、

「おまえが最後にやりたいことがあったら、それにつき合うよ。海に行くんでも、一日アニメ鑑賞会でも、なんでもいいぞ」

「……ありがとう、お兄ちゃん」

 美沙も笑顔を見せた。

「世界が終わるときが来たら、そのときは、お願いね」

「さあ、さっさとシャワー浴びて来い」

「ついて来てくれないの、お兄ちゃん?」

「わかったよ。まったく手のかかる子供だな、おまえ」

 陽祐は苦笑いして、立ち上がった。

 

 

 狼のことを思い出させないように、美沙の気を紛らわしたほうがいいだろう。

 そう考えた陽祐は、交代でシャワーを浴びて着替えたあとは、スパイアクション物と刑事アクション物のDVDを連続上映して、美沙と二人で鑑賞した。

 それから、二人で晩ごはんを作って食べた。冷凍しておいた鯖とごはんと味噌汁、それにホウレンソウが悪くなりかけていたのでソテーにした。ビールも飲んだ。

 食後の予定は、まだ考えていなかった。皿を洗いながら、陽祐は言った。

「ビデオ屋で、もっといろいろ借りてくればよかったな」

「そうだね……」

 赤い顔でテーブルに頬杖をついた、美沙が答える。

 テレビゲームで対決しても、酔った美沙が相手では勝負にならないだろう。

「おまえが友達から借りたDVD、あれは面白かったか?」

「観たいの、お兄ちゃん?」

「そういうわけじゃないけど、おまえは一度観てるんだし。漫研のドラマCDと、関係ある話?」

「ううん、ドラマは違う漫画が原作で」

 いかにも少女漫画らしいタイトルを、美沙は言った。

 美沙はヒロインの少女役を頼まれているが、ほかの登場人物は全て男だという。もちろん、女子高だから演じるのは全員、女性だ。

「うちにも漫画あるよ。読んでみる?」

 皿洗いが終わったところで、二人で美沙の部屋へ行き、並んでベッドに寄りかかって座って読書会となった。陽祐は一巻から読み始め、美沙も読み返したかったからと言って、ドラマCDでとり上げる予定だった途中の巻から読む。

 ヒロインの周りに次々と格好いい男が現れる、いかにも少女漫画らしい話だったが、絵柄は綺麗だし、ときおりギャグもあったりで、なかなか楽しめた。

 二巻まで読み終えたところで、陽祐はベッドの枕元の時計を見た。

「ちょっと早いけど、そろそろ寝るか? きょうは遠出して疲れただろ。それとも、もういっぺんシャワー浴びるか?」

「ううん、このまま寝ちゃう。エアコンのおかげで汗もかいてないし」

 美沙があくびしながら答え、二人で和室へ行って寝ることにした。

 寝るときもエアコンをつけて、窓は閉めたままにした。

 美沙が布団から手を伸ばしてきたので、陽祐は握り返してやった。美沙は安心したように、すぐに寝息を立て始めた。

 

 

 夜中に目を覚ますのは、ここ最近なかったことだ。

 陽祐は、ぼんやりと天井を眺める。昼間の狼騒ぎで、まだ興奮しているのかも。

 いや、そうじゃない。

 ――かつんっ。

 何かが、窓に当たる音がしたのだ。いまも、また。

 美沙とつないでいた手を離し、揺り起こそうとした。

「ん……」

 美沙は小さく声を上げたが、目を覚まさない。

 ――かつんっ。

 くそっ。

 陽祐は舌打ちして起き上がった。

 障子を開けて、窓の外を見る。

 庭に何かがいる様子は……ない。

 いや。

 塀の外だった。

 家の前の道に、月明かりを浴びて人影があった。

 

 

 麻生夏花だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   第六章  夏花(二)

 

 

 窓を開けて、陽祐は叫んだ。

「――麻生!」

 小石か何かを投げようとしていた手を止めて、麻生は、悪戯っぽく笑ってみせた。どういうわけか、中学時代の制服のブレザー姿だ。

「陽祐さん……」

 陽祐は美沙を振り返った。目を覚ます様子はない。

「そこで待ってろ!」

 麻生に呼びかけ、陽祐は窓を乗り越えて、庭に下りた。

 しかし塀まで乗り越えるよりは、門へ回ったほうが早い。

 すぐに外の道へ出て、麻生の前まで走った。麻生は、その場で待っていた。

 少し走っただけなのに、息が切れたように感じた。裸足だったので足の裏も痛い。

 麻生は微笑んでいる。

「…………、おまえ……」

 すぐには言葉が出なかった。

 世界中の人間が消えたはずだった。だが、自分たち兄妹と同様に、麻生も取り残されていたのか、この世界に?

「……いままで、どこにいた? おまえ一人か、家族も一緒か?」

「私は、いま現れたばかりです」

 笑顔のままで、おかしな答えを麻生は返した。

「あまり時間がないんです。私の話、聴いてもらえますか?」

「いや、ちょっと待て。美沙にも一緒に聞かせたい。うちに入れよ」

「美沙さんは、しばらく目を覚ますことはありません。あなたと話をするために、一時的にこの世界に干渉しました。でも、長くは続けられないんです。もともと不安定なこの世界の崩壊を早めることになりますから」

「……おまえ、なに言ってんだかわかんねーぞ」

 陽祐は顔をしかめた。

 ようやく現れたと思った自分たち兄妹以外の人間が、どうやら頭がテンパっているらしい麻生だとは。

「ここは、夢の世界なんです」

「ほう」

 麻生の言葉に、陽祐はうなずいた。

 なるほど、いま自分は夢を見ているのかと、陽祐は納得した。

 狼が現れたのなら、ほかの人間が姿を現してもおかしくはない。そんな考えが頭のどこかにあって、自分たち兄妹二人だけの世界に、別の人間が現れる夢を見たのだろう。

 しかし、現れたのが、よりにもよって麻生だとは。

「……えっと、陽祐さん、たぶん誤解していると思うので、ちゃんと説明しますけど。あなたと美沙さんが二人きりでいるこの世界が、夢なんです」

「…………」

 今度は陽祐は、うなずかなかった。

 世界中の人間が消えたこの世界が夢である可能性を、陽祐も何度か考えた。しかし、夢で片づけるには、中途半端にリアルだった。

「……頬をつねって痛い夢があるのかよ?」

「それは、いくつか理由があります。まず、夢を見ているのは、あなた自身じゃありません。そして、ここは、ただの夢の世界じゃないんです。限りなく本物に似せて作られた、夢を見ている本人の願望を満たしてくれる世界です」

「悪いが、麻生」

 陽祐は努めて冷静に言った。本当は怒鳴りつけてやりたいところだった。

「昼間いろいろあって、あまり普通の精神状態じゃねーんだ。おまえも、その格好からしてマトモじゃねーのはわかってるけど、無駄話にはつき合ってられねーぞ」

「私が中学校の制服姿なのは、美沙さんの心の中のイメージが投影されてるんです。いつも学校でしか会わなかったからだと思いますけど。それはともかく……」

 麻生は、にっこり笑ってみせた。

「昼間いろいろというのは、狼のことですよね?」

「…………」

 陽祐は眼を見開く。

「……おまえが、何でそれを知ってる?」

 麻生はそれには答えず、笑顔のままで、

「あの狼が何者かは、美沙さんの言った通りです。正確に言えば、この世界そのものに対する美沙さんの罪悪感が、映画で観た狼の姿を借りて具現化したものです。よほど印象に残った映画だったのでしょうね。違う映画の記憶が強ければ、巨人や怪獣が現れたかもしれません。ともかく、美沙さんは自らこの世界を作りながら、そのことに罪の意識を感じて、世界を終わらせる怪物じみた狼まで作り出してしまった」

「おまえ、麻生じゃねーだろ。何者だ?」

 陽祐は言った。

 マトモじゃないにしても、言っていることがSFかファンタジーじみていた。陽祐の知る限り、麻生にそんな趣味はなかったはずだ。麻生が読む漫画は恋愛物が中心だった。

 それに、昼間の狼の出現を知っているのが、何よりおかしい。

「ちゃんと話を聴いてもらえたら、それも含めて説明します。質問がありましたら、最後に受け付けますから」

 麻生の姿をした相手は、もったいぶって咳払いしてから、語り始めた――

 

 

 えっと。

 まず、この世界は、美沙さんの夢です。ほかの全ての人間が消えた世界で、お兄さんであるあなたと二人きりになるというのは、美沙さんの願望が現れたものです。

 あなたは、その夢の中に魂を囚われています。美沙さんは、自分が作った夢の世界に、あなたを閉じ込めてしまったんです。

 そんなことができたのは、《アーティファクト》の力です。

《アーティファクト》というのは、わかりやすくいえば魔法の道具です。でも、漫画とかゲームじゃない現実の世界に、魔法が存在するはずありませんよね。

「存在するはずがないのに存在している」のが《アーティファクト》なんです。

 それは、あなたが知る現実とは、別の世界で作られたものだと考えられています。そして、どういう理由でか、ときどき現実の世界に出現してしまいます。

 何か実験とか、特定の目的があって現実世界に送り込まれるのか、それとも偶然の事故か、単なる嫌がらせかは、わかりません。

 作っているのが何者かもわからないんです。異世界の人間か、神様か、悪魔なのか。

《アーティファクト》は、それぞれ異なった力を持っています。美沙さんが手に入れたのは、望み通りの夢の世界を作り出す《アーティファクト》です。

 手に入れた場所はわかっています。あなたがたの家の近くの駅の駐輪場です。美沙さんが停めておいた自転車のカゴに入っていたんです。《アーティファクト》は、よくそういう出現の仕方をします。

 美沙さんはそれを見て、誰かの忘れ物だと思ったようです。駐輪場の係の人に渡そうとしましたが、手を触れた途端に、それがどういう存在か知ってしまいました。《アーティファクト》にはそういう力があります。取扱説明機能といいますか。

 とはいえ、美沙さんは《アーティファクト》の使い道に迷ったようです。どんな世界を作れたとしても、それは夢でしかないからです。しかし、《アーティファクト》を手放すこともできず、家に持ち帰り、夜になって眠りにつきました。

 そして無意識のまま、あるいは夢うつつのまま、この世界を作り出したんです。

 いま、美沙さんは、自らの願望が産んだこの世界に罪悪感を覚えています。この世界にあなたを閉じ込めてしまったことも、罪悪感の理由の一つです。

 それが、この世界における狼や、いま私が姿を借りている麻生夏花さんの存在として現れています。麻生さんという同級生は、狼と同様に、美沙さんにとっては、あなたと二人きりの世界を壊す悪の化身のような存在なんです。

 この世界の麻生さんは、あなたの場合と違って本人の魂が囚われているわけではありません。あくまで夢の中のニセモノです。いままで、あなたがたの眼に触れなかったようですが、狼と同様、きっかけがあれば出現していたはずです。世界の破壊者として。

 ですから、この世界は非常に不安定です。その状態は、美沙さん自身の精神にも大きな影響を与えています。《アーティファクト》の力を借りたとはいえ、まして夢とはいえ、一つの世界を作り上げることは、神様でもない人間には大きな負担なんです。

《アーティファクト》は、そういう危険な存在でもあるんです。

 このままいけば、この世界が崩壊すると同時に、美沙さん自身の精神も崩壊してしまう恐れがあります。その場合、この世界に囚われているあなたの魂も無事では済まないでしょう。

 いえ、たとえ世界が崩壊しなくても、いまのままでは、あなたは永遠に元の世界に戻れません。この世界で、あなたは三日間を過ごしているはずですが、現実世界では無限小の時間しか経過していません。現実世界では、いまはまだ木曜日の午前一時なんです。

 美沙さんが《アーティファクト》を手放さない限り、あなたと美沙さんは、永遠にこの世界で暮らし続けることになります。現実世界では一秒も時間が過ぎないまま。

 もう一つの道は、美沙さんが自らの意思であなたの魂を解放して、自分自身も現実世界に帰ろうと決意することですが、いまの不安定な精神状態では、それは望めそうにありません。それができれば、罪の意識など感じる必要はないんです。自分の願望を実現させた夢の世界を放棄するには、相当の決意が必要なんです。

 この状態を抜け出すには、美沙さんが夢の世界のどこかに隠した《アーティファクト》を、あなたが見つけ出すしかありません。そして、それを私に渡してください。

 私自身が捜すことができればいいのですが、最初に言いましたように、この世界への干渉は長く続けられないんです。他人の夢は、普通、覗けるものではありませんから。

 それにしても、私も驚きました。現実世界に出現した《アーティファクト》を、それ自体が作り出した夢の世界に隠すことができるなんて。これほど安全な隠し場所は、ほかにありません。

《アーティファクト》は、ある種の人たちの間では知られた存在です。それを手に入れるために、手段を選ばないような人もいます。

 美沙さんが手に入れた《アーティファクト》は、使いようによっては悪魔の道具になるんです。憎い相手の魂を夢の世界に閉じ込めて、永遠の苦痛を与えることができるのですから。

 そうした使い方をする人の手に渡る前に、《アーティファクト》を私自身が手に入れるか、それができなければ現実世界から消滅させるのが、私の目的です。

 ちなみに、私が麻生さんの姿を借りて、あなたと話しているのは、この世界の構成要素であなたと意思疎通できる存在が、ほかになかったからです。

 それと、この世界に干渉した時点で、申し訳ないと思いましたが、夢の世界における三日間、あなたたちがどのように過ごしたか、美沙さんの記憶を覗かせて頂きました。

 この世界は美沙さんの夢ですから、彼女の記憶を探れば、この世界の出来事は一通り記録されているのです。

 ……説明としては、こんなところでしょうか。

 もう、あまり時間がありませんが、何か質問がありましたら、どうぞ。

 

 

「結局、あんた何者だ?」

 陽祐はたずねた。

「美沙がおかしな魔法の道具を手に入れたとして、あんた自身にも魔法の力があるみたいじゃねーか?」

「《アーティファクト》のコレクターだと考えてください。私は特別な《アーティファクト》を所有していて、それは現実世界のどこに別の《アーティファクト》が存在しているか教えてくれます。美沙さんが《アーティファクト》を手に入れたことは、それの力で知りました」

「他人の夢は覗けないとか言いながら、この世界で起きたことを、すっかり知ってるみたいだな。美沙の記憶を覗いたと言ったか? そういう力もあるんだろ?」

「人の心に干渉できる《アーティファクト》も所有しています。美沙さんのものほど大がかりに、リアルな夢の世界を作り上げたりはできませんが、他人の記憶を覗いたり、夢の中の登場人物に望んだ台詞を喋らせるくらいのことはできます」

「それなら簡単じゃねーか。あんたが言う《アーティファクト》とやらが、この世界のどこに隠されてるか、美沙の記憶を探ればすぐに見つかるだろ?」

「そう単純ではないんです」

 麻生の姿をした相手は、苦笑いした。

「夢には表面的な部分と、内面的な部分があります。たとえば、夢の中でお寿司を食べたというのは、表面的な部分です。目を覚ましたときに記憶に残るのも、そういう表面的な部分です。でも、どうしてお寿司を食べる夢を見たかというと、自分でも説明がつきませんよね。それが内面的な部分です」

「寿司が食いたかっただけじゃねーのか?」

「たとえが悪かったですかね。では、怖い夢はどうですか? 何かに追いかけられたりする怖い夢を、見たいと思って見る人はいませんよね? でも、それを見てしまうというのが内面的な部分です」

「寝る前にホラー映画でも見たんだろ」

「えっと……」

 麻生そのままの顔の、苦笑いがひきつった。

「あなたは、いつもそんな単純な夢しか見ないんですか? じゃあ、ききますけど、怒らないでほしいですけど、麻生夏花さんと別れてから、あなたは、彼女が出て来る夢を見たことないですか?」

「…………」

 陽祐は眉をしかめた。

「……なくはねーな」

「そういうことです、内面的な部分というのは。この夢の場合は《アーティファクト》の力で作られたせいもあって、私に覗けるのは表面的な部分までです。美沙さんがこの世界を無意識に作ったせいもあって、《アーティファクト》がどこに隠されているかは、美沙さんの記憶からは覗けませんでした」

「それじゃ、俺にも見つけられねーんじゃねーか? この世界のどこか奥底に隠してあるんだろ? それこそ地面の下とかさ」

「でも、そういう風には感じられません。美沙さん自身の手の届くところにあるということは、わかっています」

 相手は言って、微笑む。

 どうも胡散臭い。こいつ、何か知ってて隠してることがありそーだ。

 そう勘ぐってしまうのは、相手が麻生の姿をしているからかもしれないけど。

 ため息をついて、陽祐は言った。

「あんたに美沙が隠した《アーティファクト》とやらを引き渡せば、美沙と俺は助かるって言うのか?」

「美沙さんが《アーティファクト》を手放せば、いま感じている罪の意識はおおかた消えて、あなたの魂も夢の世界から解放されることになります」

「俺があんたの言うことを信用していい理由が、どこにある?」

「信用してもらえなければ、あなたは永遠に現実世界には戻れません。この世界が崩壊した場合、美沙さんの《アーティファクト》は消滅します。崩壊しなかった場合でも、うまく隠されている美沙さんの《アーティファクト》が他人の手に渡ることはないでしょうから、私としては、それで困りません」

「あんたはその《アーティファクト》を集めて、何をする気だ?」

「特には何も。コレクションは、それ自体が目的みたいなものでしょう?」

 相手は麻生の姿のまま、にっこりとした。

 くそっ、やりづれー。

 陽祐は仏頂面で、

「いまの麻生の姿は、この世界にいる俺と話すためのスピーカーみたいなもんだろ? だったら、本物のあんたは何者だ? 男か女か、普段は何をしてるんだ?」

「いちおう女ですから、安心してください。それ以上のことは答えられません」

 麻生の姿の女は、悪戯っぽく笑った。

「そろそろ、おしゃべりは終わりにしないと、美沙さんに負担がかかります。この世界の朝まで、美沙さんは眼を覚まさないようになっていますから、できたらそれまでに《アーティファクト》を見つけてください。あなたがそれを手にすれば、この世界の外にいる私にもすぐにわかりますから、ここから脱出できるよう迎えに来ます」

「ちょっと待て。この世界自体が美沙の夢なのに、その中で美沙が眠ってるってのは、どういう状況だ?」

「現実世界では無限小の時間しか過ぎていなくても、この世界では、あなたがたの体感として確実に時間が経過しています。つまり、意識はそれだけ活動しているのですから、記憶を整理するために睡眠も必要というわけです」

「《アーティファクト》はどんな格好をしてるんだ、俺が見てすぐにわかるもんか?」

「見た目は置き物のようですが、それがどうしてそこにあるのか、見たら違和感を覚えるはずです。存在するはずがないのに存在するモノですから……」

 麻生の姿が、薄らいだ。背後の夜の町並みが透けて見える。

「それでは、健闘を祈ってます……」

 言い残して、麻生の姿は消えた。

 

 

「……くそっ」

 陽祐は舌打ちした。

 麻生の姿をした自称「女」の言うことを、どこまで信用できるのか。

 だが、相手の話は、それなりに辻褄が合っていた。

 宇宙人の実験でも超常現象でも、ただの夢でもない「魔法で作られた世界」説だ。その可能性は考えなかった。

 家の中に戻った。和室を覗くと、美沙は布団の上で眠り続けていた。

 何も知らないような、穏やかな寝顔。

 だが、ニセモノの麻生の話が真実だとすれば、美沙自身、この世界が自分の願望が作り出したものだと、どこかの時点で気づいたのではないか。美沙はこの世界が自分の夢だと承知した上で、何も知らないように振る舞っていたのだろうか。

 そんな器用なことができる奴だったか、おまえ? 確かに、おかしな態度を見せたこともあったけど。

 だから、この世界は崩壊しかけているのかもしれない。

 ため息をついて、陽祐は和室を出た。

 美沙がどこかに隠した《アーティファクト》とやらを捜さなければならない。まずは美沙の部屋からだろう。

 だが、それでいいのか? せっかく美沙が作った夢の世界を、正体のわからない女に言われるままに、ぶち壊すようなことをして。

 そもそも、美沙の無意識下のどういう思いが、兄と二人きりの世界を作ったのか?

 二階の美沙の部屋に入って、明かりをつけた。

 寝る前に来たときと何も変わらない部屋の中を、陽祐は一人で物色し始めた。

 机の引き出しは鍵がかかっていた。だが、この机は隣の部屋にあるものと同じだ。

 陽祐は自分の部屋から机の鍵を持ってきて、美沙の机の鍵穴に挿してみた。鍵は開いてしまった。

 ちゃちな鍵だ。大事なものを机にしまうのはやめておこうと思う。

 引き出しの中身は文房具やレターセットなどだった。鍵をかけるほどのものは入っていないと思ったら、一番下の引き出しに日記帳があった。

 手にとってみて――すぐに、元の場所に戻した。謎の女が現れないところを見ると、それが《アーティファクト》というわけではないのだろう。

 日記を読めば、美沙がどこに《アーティファクト》を隠したかのヒントが、それに、どうしてこんな世界を作ったかも、わかるかもしれない。

 でも、それをしてはいけない気がした。美沙の気持ちを汚すことになるから。

 正攻法で捜してみて、見つからなかったときは、あきらめよう。

《アーティファクト》など見つからなくても、この世界が崩壊する前に、美沙を救ってやる方法があるかもしれない。美沙に選ばれて、この世界に連れて来られた自分なら、それができるのではないか?

 引き出しを引き抜いて、底を覗いてみたが、何もなかった。

 机の上に置かれたDVDのパッケージが目についた。美沙が友達から借りたものだ。結局、どんな話だったのだろう?

 パッケージを開けて、中に入っていたリーフレットを読んでみた。

 陽祐や美沙が生まれる何年も前に公開されたアニメ映画だった。原作の漫画を下敷きにした、オリジナルのストーリーであるようだ。

 文化祭直前のとある高校。生徒たちは連日、泊まりこみで準備に追われている。だが、何日たっても文化祭当日は訪れない。彼らは文化祭前日の同じ一日を延々と繰り返していたのだ。主人公たちがそれに気づいた途端、世界の姿は変貌し、街は主人公と仲間たちのほかは誰もいない廃墟となった。全ては魔物の陰謀だった。主人公たちは夢の世界に囚われていたのだ――

 この映画を観たことが、「兄妹二人のほかは誰もいない世界」を美沙が作り出すきっかけになったのだろう。

 黒い狼といい、映画に影響されやすい奴だとあきれてしまう。

 ともあれ、このDVDが《アーティファクト》でもなかった。手を触れても何も起こらなかった。

《アーティファクト》は見た目は置き物のようだと、謎の女は言っていた。

 クロゼットを開けてみた。本棚も隅々まで見回した。

 ベッドの枕元に並べてあった、ウサギやクマのぬいぐるみも、一つ一つ手を触れてみたが、何も起こらない。ぬいぐるみそのものが《アーティファクト》であったり、ぬいぐるみの体の中に隠されていることは、ないようだ。

 タンスの引き出しを開けて、「捜し物のためだ」と自分に言い聞かせつつ、そんな言いわけに自己嫌悪しながら、丸めて収められた下着の間に手を入れて探った。洗濯物を干すときに触れるのと、勝手にタンスを開けるのとはわけが違う。

 そこまでしても、それらしいものは見つからなかった。

 自分の部屋には置いていないのかもしれない。

 ならば、どこだ? 美沙の学校か?

 女子高にどうやって忍び込む、美沙の眼を盗んで?

 できるわけがなかった。そこまでして捜したいとも思わない。

 もう一つ、可能性としては中学校だった。そちらなら美沙が寝ている間に、行って帰って来られるだろうし、忍び込むのに気後れすることもない。

 だけど。

 美沙は朝まで目を覚まさないと、謎の女は言ったけど。

 美沙を一人でこの家に残して、中学校まで出かける気には、ならなかった。

 せっかく作った世界を崩壊させそうなほど、美沙が苦しんでいるならば。

 ずっと、そばにいてやりたいと思う。目を覚ますまで、手を握って。

 悪いな。名前は知らねーけど、麻生の顔をした女。あんたの期待には応えられないようだ……

 陽祐は寝室に戻り、自分の布団に横になった。

 隣で眠る美沙の手を握って、眼をつむった。

 この世界が夢だと知ったいまでも、夢の中で眠ることに違和感はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   第七章  美沙(四)

 

 

 外が明るくなっていた。陽祐は、目を覚ました。

 隣の布団を見る。美沙はいない。

 だが、メモが置いてあった。手にとって読んでみた。

『先に起きて朝ごはん作るね。心配しないようにメモを置きました』

 ダイニングへ行くと、エプロン姿の美沙が料理中だった。

「おはよう、お兄ちゃん」

 振り返った美沙の、屈託のない笑み。

 美沙が自らの精神もろとも、この世界を崩壊させてしまうなんて、考えられないことだと思えてきた。

「何か手伝うことあるか?」

「そしたら、洗濯機回してきてくれる? ごはん食べ終わったら、二人でお掃除ね。お兄ちゃん、きのう、お風呂掃除してないでしょ?」

 しっかり覚えてやがったか。

「そのあとは、連れて行ってほしいところがあるんだ」

「図書館か?」

 陽祐が言うと、美沙は首を振り、

「せっかく二人きりの世界なんだから、普段は行けないようなところ。美沙、いっぺん超高級ホテルってところに行ってみたいと思って」

「行っても誰も出迎えてくれないし、レストランも営業してねーけど」

「でもいいの。ロビーとか部屋とか綺麗でしょ? せっかくだから泊まってみようよ」

「ま、いいけど……」

《アーティファクト》捜しからは、ますます遠のきそうだったけど。

 

 

 掃除のあと、二人でネットで調べて、都会のビルの上層階にあるホテルを選んだ。

 ホームページに掲載されていた七フロア分吹き抜けのロビーの写真を見て、ここにしようと美沙が決めたのだ。

 地図サイトで道順も調べた。都市部の道はややこしいが、なんとかなるだろう。

 一泊分の着替えを用意してバッグに詰め込んだ。昼食と夕食は、美沙が弁当を用意していた。最初からそのつもりで早起きしたのだという。

 二人で車に乗り込んで、出発した。

「普段行けないところなら、芸能人の豪邸とか、テレビ局や映画の撮影所でもよかったんじゃねーか?」

 陽祐が言うと、美沙は口をとがらせて、

「他人の家なんか行っても落ち着かないし、テレビ局とかは何の撮影もやってないから、つまんないでしょ」

「そりゃそーか」

 高速のインターまで来て、きのうとは逆方向の都会方面に進んだ。

「遊園地も営業してねーし、動物園や水族館は空っぽだし、意外と遊べる場所は限られてるかもな、この世界」

「旅行に行くならいいんじゃない? 山とか海とか、ほかに人間がいないから、思いきり自然を楽しめるよ。今度はそういうところにも行ってみようよ」

「そうだな。ついでに老舗の超高級旅館に泊まったりして」

「お食事は出て来ないけどね」

「調理場に入り込んで、二人で作ろうぜ。食材はそのへんの山菜になりそうだけど」

 二人で笑い合う。

 やがて、行く手に都会のビル群が見えてきた。

 道は片側二車線になったが、ほかに車がいないので混み合うことはない。

 目的地まで、もうすぐだろう。

 美沙は陽祐がセットしたMDの曲に合わせて口ずさんでいる。

「……おまえ、人に見せたくない秘密の宝物とか、あったりするか?」

 何げないふうを装って、きいてみた。

「え? いきなり何よ、お兄ちゃん?」

 笑う美沙に、陽祐も笑ってみせ、

「誰だってあるだろ、そういうの。俺はあるぜ、昔の彼女にもらったプレゼント。高いものだと思うと、もったいなくて捨てられなくて、押入れの奥にしまい込んである」

「美沙は……」

 小首をかしげて、

「日記かな。でも、最近書いてないけど」

「どういうところにしまってあるんだ?」

「机の引き出し……、って」

 美沙は陽祐を睨んだ。

「絶対見ないでよ、お兄ちゃん」

「見やしねーよ。どうせ鍵がかかってるだろ?」

「そうだけど」

「机の引き出しじゃなきゃ、どういうところに隠すんだ?」

「お兄ちゃんは? きのうの漫画でもあったけど、彼氏の家に行った主人公が、友達のアドバイスに従ってベッドの下を覗いたら、いっぱいエッチな本を見つけちゃうの。そういうこと、やってない?」

「そんな場所には隠さねーよ。ときどきオフクロが俺の部屋を勝手に掃除するから、見つかっちまうじゃん」

「ほかの場所には隠してあるんだね、エッチな本?」

 じーっと美沙は陽祐の顔を見ている。

 陽祐は苦笑いして、

「妹の前で言う話じゃねーけど、十八にもなって、そういうものに興味を示さない男は、そのほうが問題だと思うぞ」

「美沙が見つけちゃうような場所には置かないでよね」

「わかった、わかった」

 話がそれてしまった。

「で、おまえはどうするんだ、大事なものの隠し場所?」

「それを教えたら、隠し場所にならないでしょ」

「そりゃそーだが」

「でも、お兄ちゃんに見られて困るものは、日記以外はないかな……」

 美沙は微笑み、フロントガラスに視線を向けた。

「……だけど、そうだね。もしも、誰にも渡したくない宝物があったら、美沙はどこかに隠さないで、肌身離さず持ち歩くと思うよ」

「そっか……」

《アーティファクト》もそうしているのかとまでは、きけなかった。

 

 

 ホテルが入っている建物は、外観は普通のオフィスビルのようだった。新幹線の駅の周りに建ち並ぶ一群のビルの中で、一番駅に近い便利な立地だ。

 徒歩ならば駅からそのまま入れるようだが、車で訪れる場合は駅前を通り過ぎて、ビルの裏手側にあるホテル専用の玄関口に回るかたちだった。

 玄関を過ぎた先には地下の駐車場への入口があったが、陽祐は車を玄関前に横づけして停めた。誰に迷惑がかかるわけでもない。

 二人でバッグを手に、ホテルの玄関をくぐった。ベルボーイがいれば、荷物を運んでくれるところだろう。

 一階のエントランスはエレベーターホールの役割しかないようで、あまり広くない。

 写真で見た吹き抜けのロビーは、フロントがある二十六階だろう。

 エレベーターに乗り込んだ。行き先ボタンは駐車場がある地下一階と、玄関口の一階、駅への連絡口の二階と、あとはロビーの二十六階しかない。

 陽祐が二十六階のボタンを押すと、美沙が、

「上の階まで一気に上がっちゃうんだ。途中の階って、何があるんだろうね?」

「普通の会社じゃねーかな? きっと出入口は分かれてるんだと思う」

 すぐに二十六階に着いた。エレベーターのドアが開くと、写真で見たロビーが広がっていた。

「わあ……」

 美沙は声を上げる。

 ホームページによれば、二十六階から三十二階までの吹き抜けの大空間だった。天井はガラス張りで、青空が望める。

 各階のロビーに面した側は廊下のようで、吹き抜けの空間とはガラス窓で仕切られていた。客室はその廊下を取り巻いて配置されているのだろう。

 ロビーの中央はレストラン兼カフェコーナーで、エレベーターホールからそちらへ行くには、ガラス張りの橋を渡り、水中照明で彩られた池を越えていくかたちだ。

 レストランの厨房もガラス張りで、シェフの手並みを眺めながら料理を堪能できるようになっている。当然、いまは無人である。

 一隅にはバーカウンターもあり、背後の棚にグラスや酒のボトルが収められている。

 高級ホテルとはこういうものかと、陽祐は納得した。

 高校生の日常生活とは縁遠い場所だ。

「ごはんはロビーで食べようね。いつも以上においしいはずだよ」

 美沙が言って、陽祐は笑い、

「オリジナルカクテル作りにも挑戦してみようぜ」

 その前に、まずは今晩泊まる部屋を決めることにした。

「客が全員消えたのが午前一時としても、空いてる部屋がいくらかあったはずだ」

 陽祐はフロントデスクを乗り越えて、ルームキーの置き場所を探した。だが、デスクの中にはないらしい。

 うしろに半分開いている扉があった。事務室への入口のようだ。入ってみると、そこに各部屋のキーを並べた棚があった。キーはカード式になっている。

 部屋番号からではグレードがわからないので、とりあえず最上階の三十二階で残っていた部屋の一つのキーをもらっていくことにした。

 二十七階から上の客室へは、吹き抜けに沿って造られたシースルーのエレベーターで上がるようになっていた。

「すごーい、来てみてよかったあ」

 エレベーターの中からロビーを見下ろし、はしゃいでいる美沙の姿に、陽祐も連れて来てやってよかったと思う。

 三十二階で下りると、目当ての客室はすぐだった。

 カードキーを挿し込み、ドアのロックを外して部屋に入った。

「へーっ」

 美沙が感心した声を上げる。

 アイボリーとブラウンを基調にした、落ち着いた雰囲気の部屋だった。窓からは都会のビル群が見渡せる。夜になれば木曜日の午前一時と同じ夜景が見られることだろう。

 うまい具合にベッドは二つだった。あとでベッドを動かして、隣同士に並べてしまってもいい。ここまで来て、美沙が手をつないで寝たいと言えばだけど。

「スイートとかは、空いてなかったのかな?」

「どうかな。部屋番号だけじゃ、わからなかった」

「でも、ここでいいや。あとでベッドを動かして隣に並べようね」

 やっぱり動かすのか。この甘えん坊。

 

 

 昼食用の弁当を持って、ロビーに戻った。

「インスタントのスープも用意して来たけど、お湯入れられるかな?」

「厨房に行って、沸かして来るよ」

「美沙も一緒に行く。ホテルのキッチンがどうなってるか、見てみたい」

 自分で料理するとすれば目玉焼きかインスタントラーメンくらいの陽祐には、鍋や包丁など使えればいいという感覚で、道具に対するこだわりはない。

 だが、美沙には家庭にある調理器具と、ホテルの厨房で使われているそれとの違いがわかるらしい。道具をいろいろ手にとっては、「へーっ」とか「ほーっ」と、感心した声を上げていた。

 ホテルのロゴマーク入りのカップを拝借して、粉末スープを入れて、鍋で沸かしたお湯を注ぐ。ついでに厨房にあったティーバッグで紅茶も入れた。

「こんなホテルでも、ティーバッグなんか使うんだな」

「ルームサービス用じゃないかな? 結構有名なブランドだよ、これ」

 高級ホテルのレストランで食べる美沙の手作り弁当は、なかなかの味わいだった。

 食事のあとは、子供の頃の家族旅行で泊まった観光地のホテルの思い出を語り合った。みんなで卓球で対戦したり、大きなホテルではボーリングをしたこともあった。

 観光ホテルではお約束のゲームコーナーは、このホテルには、さすがにないようだ。

「フィットネスルームがあるって、ホームページに書いてあったじゃない? あとで行ってみようよ」

「俺、ジャージ持って来てねーぞ」

「美沙はちゃんと持ってきたよ。お兄ちゃんはTシャツでいいじゃん」

「しょうがねーな、つき合うか。おまえが声優目指すなら、肺活量を鍛えるためにトレーニングも必要だろうし」

「べつに声優目指してるわけじゃないよ。ただ漫研の文化祭の出し物で……」

「だったら、おまえの将来やりたいことって、何?」

「えっと……」

 美沙は、はにかむように笑った。

「専業主婦、かな」

「おいおい、それは……」

「なーに? お兄ちゃん、主婦業をばかにするの?」

「ばかにはしねーけど、オフクロみたいな生活を毎日送るのか?」

「いいじゃん。家族のために毎日、おいしいごはん作って」

「夜はテレビ観ながらビールか? なんだかなー」

「ビールは一人では飲まないよ。愛する人と、二人で飲むの」

「うちのオヤジみたいに帰りが遅くてもか?」

「待ってるよ、必ず。夕飯も二人で食べるから」

「子供ができたら、そうもいかねーだろ」

「それはそうだけど、二人きりのうちはね。だって、せっかく作ったごはん、おいしいと思ってくれる人と一緒に食べたいじゃない? だから……」

 美沙は、にっこりと微笑んだ。

「美沙、いま幸せなんだ。毎日、お兄ちゃんにごはん作ってあげられるから」

「…………」

 陽祐には返す言葉がなかった。耳が熱くなりそうだ。

 これが妹ではない相手から言われたのなら、きっとその彼女に惚れてしまうだろう。だが、相手が実の妹である場合、どうリアクションすればいいのだろう?

 子供じみた美沙の言うことだ。おそらく、ままごと遊びの延長の感覚なのだろう。

 世界中の人間が消えた世界を作って、やりたかったのが、ままごと遊びか。

 でも、それならば、罪の意識なんて感じる必要ないんじゃないか?

 ――考えたって、陽祐にわかることではない。

「……フィットネス、行ってみるか」

 陽祐は立ち上がった。

「部屋に戻って、着替えようぜ」

「うん」

 美沙は笑顔でうなずいた。

 

 

 フィットネスルームからも、周囲の高層ビル群が一望できた。

 エアロバイクやランニングマシンは窓のすぐ前に並べてある。ウエイトマシンは窓から離れた壁際だ。

「よっしゃ、俺がトレーニングメニューを考えてやろう」

 陽祐は言ったが、美沙はさっさとエアロバイクにまたがって、

「美沙、これやってみたい。ダメ?」

「自転車なら毎日、学校行くとき乗ってるだろ。やるならウエイトトレーニングのほうがいいんじゃねーの?」

「でも、眺めがいいもん。このまま空に飛んで行けそうだよ」

 そう言いながら、楽しそうに漕ぎ始める。

「どうせお遊びだし、まあいいか」

 陽祐も隣のエアロバイクにまたがって、ゆっくり漕ぎ始めた。

 窓の外は大都会。オフィスビル、高層マンション、新幹線の駅などが見渡せる。

 しかし、新幹線の線路上にも、ビルの谷間の道路にも、動くものは何も見当たらない。空を飛ぶ鳥もいない。

 ただ雲だけが流れている。

 これが夢ではなく現実ならば、世界の終わりは、すでに始まっているのだろう。

 ビルや道路は誰にも手入れをされず、やがてボロボロになっていく。

 落雷か何かで火事が起きれば、どこまでも燃え広がる。

 人間は、たった二人だけ。それも兄と妹である。

 子孫など残せるわけもない。二人が死ねば、それで終わりだ。

 けれども、この世界は美沙の夢であるらしい。

 美沙は、兄のために食事を作ることが幸せだと言った。

 おそらく、それを可能にするために、電気やガスや水道の供給は続いている。

 肉や魚は手に入らなくなるとしても、野菜を育てれば、台風や旱魃や冷害に遭うこともなく収穫できるのだろう。それとも、決定的には困らない程度の不作はイベントとして起こるのだろうか。

 兄妹は、おそらくいつまでも生き続ける。年をとることさえないかもしれない。

 そんな都合のいい世界を、どうして美沙は、崩壊させてしまうのだろうか。

 隣にいる美沙を見た。エアロバイクがよほど気に入ったのか、額の汗を拭いながら、にこにこしてペダルを踏んでいる。

「……美沙」

「えっ?」

 美沙は振り向く。ペダルを踏み続けながら、微笑んだ。

「なに、お兄ちゃん?」

「おまえは、この世界、気に入ってるか? 神様がくれた夏休みだって言ったよな?」

「あたしは……」

 美沙は窓に視線を向ける。

「……お兄ちゃんは、どう?」

「俺は、前にも言ったけど、悪くないと思ってる。そのうちスーパーの食材がなくなったら、野菜を育てて。たまには歩きでもいいから旅に出たりもして。のんびり生きていくのも、いいんじゃねーかと思う。いつまでも、おまえと二人でさ」

 だから、世界を崩壊させたりするな。

 そこまでは、口にできなかったけど。

「……ふうっ」

 美沙は足を止めた。もう一度、兄に微笑みかけ、

「ちょっと休憩。足が疲れちゃった」

「疲れるの早すぎだよ。これが自転車なら、家から駅にも着いてねーぞ」

「だって、いつも乗ってる自転車よりペダル重いし。でも、まだ腕は疲れてないから、ウエイトトレーニングのやり方、教えてよ、お兄ちゃん」

「しょうがねーな。どうせまたすぐ疲れたとか言うんだろーけど」

 陽祐は苦笑いして、エアロバイクを降りた。

 

 

 ひとしきり汗を流して、部屋に戻った。

 シャワーは先に美沙に浴びさせた。バスルームはユニット式で、美沙はジャージ姿のまま入っていった。きっとトイレの側を脱衣場代わりにして脱いだのだろう。

 陽祐はベッドに腰かけ、家から持参した歴史小説の文庫本を読んだ。

 窓の外は日が傾いている。街並みが黄色く染まっている。

 シャワーが済んだら、夕食にする予定だった。

 かちゃりと、バスルームのドアが開いた。

「お、出たか。じゃあ俺も……」

 言いながら振り向いた陽祐は、

「おい……」

 言葉を失った。

 美沙は、シャワーで上気した肌に、バスタオル一枚巻いただけの姿だった。

 眼を伏せたまま、

「お兄ちゃんも、シャワー、浴びて来て」

「……それはいいけど、服くらい着て来いよ、おまえ」

 視線をそらし、苦笑いして言う。

 おまえのアニキも、いちおう男なんだぜ。妹をどうこうしようとは思わないけど。

「このまま待ってちゃ、ダメ?」

「俺がシャワー浴びてる間、おまえがどんな格好してようが構わねーけど、俺が出たらメシ食いに行くんだろ? 早めに着替えとけよ」

「……お兄ちゃん」

 美沙が呼びかけてきた。

 何のつもりだ。顔を上げなきゃダメか? とりあえず、その格好は反則だ。ビキニのときよりやばいだろ、それ。

 くそっ。

「……何だよ?」

 思いきって顔を上げた陽祐に、美沙は微笑み、言った。

「美沙を、お兄ちゃんの好きなようにして」

 

 

 ――それが、この世界を作った美沙の望みなのか?

 

 

 陽祐は、ひきつった笑いで答えた。

「おまえ、本気にするぞ……」

 笑うしかなかった。悪い冗談だ。

 しかし、美沙は微笑みのまま、

「本気にしていいよ。美沙でよければ」

「…………」

 陽祐の顔から笑みが消えた。

「おまえ、それ、シャレにならねーから。この世界には、いま、おまえと俺の二人きりしかいないことになってるわけで。いちおう、俺だって男だからさ。自分の妹をどうこうしようと思うほど見境はなくしてないつもりだけど、おまえがそういうことを言ったら、いろいろ考えちまうわけだよ、男としては」

「考えなくてもいいじゃない。ここは私たち二人の世界で、誰にも邪魔はされないし、何も遠慮はいらないんだから。美沙は、お兄ちゃんに何をされてもいい。ううん、お兄ちゃんの好きなようにしてほしい。美沙は、お兄ちゃんを愛しているから」

「……美沙っ!」

 陽祐は声を荒らげた。

「やめろ、そんな話は!」

 まともじゃないと思った。美沙の様子は。

 父親も母親も消えて、この世界で兄と二人きりという状況に放り込まれて、混乱しているのだ。あるいは《アーティファクト》とかいうおかしな道具が、美沙を操って本心ではないことを言わせているのだ。

 美沙は微笑みを崩さなかった。

「やめない。ずっと伝えたかったんだもん。お兄ちゃんに、美沙の気持ちを。でも、この世界に来るまでは言えなかった。この世界に来ても決心がつかなかった。だから、いま、ようやく言えたの。愛してるって。美沙は、お兄ちゃんを愛してるって」

「……くそっ!」

 陽祐はベッドに座り込み、頭を抱えた。

 美沙を殴りつけてやりたかった。だが、できるはずがなかった。

 美沙は、まともじゃない。兄である自分を、愛しているなどと言う。

 殴って黙らせてやりたい。だが、妹を殴るなんてできるわけがない。

「……お兄ちゃん」

 美沙が、陽祐の前に立った。

「美沙じゃ、ダメなの?」

「いいわけねーだろ、おまえ! オヤジやオフクロがいつ帰って来てもいいように、普通の生活を続けるって、決めただろ!」

「ママやパパなんて関係ない!」

 美沙はヒステリックに叫んだ。だが、すぐに落ち着いた声に戻り、

「……美沙は、お兄ちゃんの気持ちをきいてるの。世界中に誰もいなくなったって、誰にも咎められることがなくたって、それでもお兄ちゃんは、美沙じゃダメなの?」

「そんなことは言ってない。だけど、やっぱり俺たちは兄妹で、オヤジやオフクロが関係ないなんてこと、ないだろう?」

 陽祐は顔を上げて、美沙を見る。美沙は、じっと兄の顔を見つめている。

 陽祐は、言った。

「たとえ、オヤジやオフクロに二度と会えないんだとしても、この世界に永遠に囚われることになるとしても、俺には、オヤジたちに恥じなくちゃいけないことは、できない」

「ずるいよ。ずるい言いわけだよ、それ。そこまで言うなら答えて。お兄ちゃんは、いままで一度も、ママやパパに恥じるようなことをしてないの?」

「…………」

 陽祐は美沙の顔を見つめたまま、しばらくためらってから、うなずいた。

「……ああ」

「嘘つき。みんなが留守の間、麻生さんを家に呼んで、エッチしたくせに」

「…………」

 陽祐は表情を変えない。

 かつて自分が麻生とつき合っていたことを、美沙もとっくに知っているはずだと、わかっていたからだ。中学の水泳部の後輩や顧問の教師にまで知れ渡っていたほどだから。

 二人が体の関係になっていることも、美沙には当然、想像できていただろう。

 麻生を家に呼んだときのことまで知られていたとは、予想外だったけど。

「……美沙、麻生さんが大嫌い」

 美沙は言った。

「中一の頃から、馴れ馴れしくお兄ちゃんのこと、きいてきて。二年になってお兄ちゃんとつき合い始めたら、クラス中に自慢して。妹の美沙に聞こえるようにだよ。家族の留守にお兄ちゃんの部屋でエッチしたとか、夜の学校に忍び込んでしたとか。なんであんな嫌な子がお兄ちゃんの彼女なのか、すごく悔しかった」

「…………」

 さすがに陽祐は眉をしかめる。麻生が二人の肉体関係の詳細まで、クラスメートの前でバラしていたとは。

「でも、その年のクリスマスの少し前だよ。美沙がいないところで、麻生さんがこそこそ話をしてて。美沙の顔を見たら、話すのをやめて。変だと思っていたら、ほかの子が教えてくれたの。麻生さん、高校生と間違われてナンパされて、お兄ちゃん以外の人ともつき合うことになったって」

 妹の口からそんな事情を聞かされることになるとは、陽祐は思いもしなかった。

「お兄ちゃんに教えてあげようと思った、麻生さんがどれだけひどい人か。でも、言えなかった。お兄ちゃんの部屋に麻生さんへのプレゼントが置いてあるの、見ちゃったから。ジュエリーショップの袋で、高いものを買ったんだとわかったから。お兄ちゃんが本当に麻生さんを好きなの知ってたから。プレゼントで彼女の気が変わって、元の関係に戻るなら、それで仕方ないと思った。そんなことにはならなかったけど」

 美沙は言葉を切って、陽祐を見つめる。

 眼に涙が浮かんでいた。それなのに笑っていた。全てをふっ切ったような。あるいは、何もかも投げ出したような、空っぽの笑み。

「次の年の夏だよね、お兄ちゃんが麻生さんと別れたの。でも、その前から、麻生さんの中では終わった関係だと、美沙にはわかってた。麻生さん、違う彼氏の話しかしなくなったから。開き直ったみたいに、美沙に聞こえても平気な顔でね。三年間同じクラスだったけど、まともに会話したのは一年のときだけだよ」

 麻生の肩をもつわけではないが、彼女がそういう態度だったのは、美沙が麻生を嫌っていたからだろう。美沙に嫌われていることを、麻生も感じていたのだ。

「お兄ちゃんが麻生さんと別れてくれて、美沙は嬉しかった。麻生さんに、お兄ちゃんはもったいないもん。ううん、本当は誰にもお兄ちゃんを渡したくない。お兄ちゃんを一番好きなのは美沙だから。美沙は麻生さんと違って、お兄ちゃんを裏切ったりしない。美沙は、本当にお兄ちゃんを愛しているから」

「おまえ、どうかしてるぞ」

 陽祐は言った。

「麻生を嫌いなのはわかったよ。だから、おまえが俺を好きだとすれば、麻生への対抗意識とか、当てつけだろう。でも、安心しろ。麻生とは一年近く前に別れてるし、ヨリが戻ることもあり得ねーから」

「嘘つき。また、嘘ついてる。お兄ちゃんの机の引き出しの奥に、麻生さんからもらったキーホルダー、まだ入ってるでしょ? 高いものはもったいなくて捨てられないと言ったけど、使い古したキーホルダーが、そんなに大切?」

「見たのか? いや、見られたって困らねーけどさ。そうだよ。あのキーホルダーには、それなりの思い出があった。でも、どこにしまったか、とっくに忘れてたけどな」

「知ってる? お兄ちゃんの机と美沙の机、引き出しが同じ鍵で開いちゃうんだよ?」

 美沙が涙目のまま、笑って言う。

 そうか、と、陽祐は思いつく。美沙が《アーティファクト》を隠したのは、兄の机の引き出しなのかもしれない。

「美沙はお兄ちゃんが麻生さんのことを忘れていないのが悔しい。もらったキーホルダーやマフラーを、使いもしないのに捨ててないのが悔しい。お兄ちゃんの携帯の電話帳に、美沙の名前よりも先に麻生さんの名前があるのが悔しい。麻生さんがお兄ちゃんと同じ高校に通って、同じ空気を吸っているのが悔しい」

「それは、おまえの思い過ごしだ」

 陽祐は、ため息をついた。

「麻生が同じ高校に入って来て、俺は心底ムカついた。自分がまだキーホルダーを捨ててないことを覚えてたら、間違いなくとっくに捨てていた」

「じゃあ、いまからでも捨ててくれるね。美沙に捨てさせてもらってもいい?」

 現実世界に戻って捨てるつもりだろうか?

 陽祐は答えた。

「好きにしろ。電話帳の順番だって、おまえがあとから携帯を買ってもらったからだよ。いちおう部活の後輩だから、麻生の番号は消すわけにいかねーし。いまさら麻生と俺は何の関係もないと、納得したか?」

 美沙は首を振った。まだ納得できないようだった。

 自分が望む答えを得られるまでは。

「美沙は、ずっと前からお兄ちゃんが好き。麻生さんなんかより、ずっと前から。覚えてる? いまの家に越して来る前、マンションでお隣の部屋が火事になったの」

「ああ」

 陽祐が小学一年生のときのことだ。美沙は幼稚園の年少組だった。

「あの日、美沙は熱を出して幼稚園をお休みして、朝からずっと寝ていたけど、気がついたら部屋の中が煙だらけだった。いま頃の季節だったから窓が開いていて、そこから煙が入ったみたい」

 陽祐もよく覚えている。

 給食の時間に職員室に呼び出されて、家が火事に遭って妹が怪我をしたと聞かされて、担任の先生の車で病院へ駆けつけたのだ。

 火が出たとき、母親は買い物に出かけていたという。幼い娘を一人残して外出したことを後悔して、母親はひどく泣いていた。

「煙の中で苦しくて、でも、すぐに何もわからなくなって。次に気づいたときは病院のベッドの上で、目の前にお兄ちゃんがいた。美沙、お兄ちゃんに助けられたんだと思った」「それは……」

 眉をしかめる陽祐に、美沙は微笑み、

「わかってる。助けてくれたのは、本当は消防士さんでしょ。でも、そのとき、ママとパパは病院の先生と、美沙の火傷のことを話してた。痕が残ったら、可哀想だって。そしたら、お兄ちゃんが言ってくれたの。『僕が美沙と結婚するから、パパもママも心配いらないよ』って」

「…………」

 正直に言って、陽祐にその記憶はなかった。だが、子供の自分が口にしてもおかしくない台詞だとは思った。

 いまでもときどき親戚にからかわれるが、幼い頃の陽祐は、「大きくなったら美沙をお嫁さんにする」というのが口癖だったらしい。

「結局、痕は残らなくて済んだけど、そのときからだよ。美沙が好きになる男の人は、お兄ちゃん一人だって心に決めたの」

「おまえ……」

 陽祐は、美沙の顔を見つめて言った。

「子供だな、やっぱり。そんな他愛もないことで」

「他愛なくないよ。あのとき、美沙は死ぬほど怖い思いをしたあとで、お兄ちゃんの言葉を聞いて、ようやく安心したんだよ。美沙は生きてるんだって。生きててよかったって。生きてたから、お兄ちゃんのお嫁さんにしてもらえるんだって」

「…………」

 陽祐には言葉が見つからない。

 美沙はどこまでも子供だった。子供の心のまま、身体は年頃の少女になっていた。純粋でいて、どこかが歪んでいた。

「わかってるよ、いまはもう。美沙は、お兄ちゃんのお嫁さんになれないって。子供だって作れないもの、兄妹同士じゃ。だけど、気持ちはずっと変わらない。本物のお嫁さんになれなくたって、お兄ちゃんと美沙のほかは誰もいないこの世界なら、美沙にもその代わりができると思ったんだよ」

 美沙は涙を拭い、微笑んだ。

「だから、答えて。お兄ちゃんは、美沙じゃダメなの?」

「…………」

 答えられなかった。どうしても答えるならば、さっきと同じだ。

 父親や母親に顔向けできないような真似は、できない。

 

 

 ――それが本心か?

 陽祐は、自問した。

 俺は、いつからそんなご立派な野郎になった?

 合コンで知り合った女と、遊びまくったんだろう?

 家族の留守に麻生を家に連れ込んで、やることやったんだろう?

 妹のほかに誰も見ていないと思って、スーパーから山ほど商品を持ち出しただろう?

 そのスーパーは、どうやって中に入ったんだ?

 ……そう、スーパーの話は、夢の中の出来事だったな。

 だったら、こいつも夢の世界の話じゃねーか。

 いいじゃねーか。可愛い妹が、好きなようにしてくれと言ってるんだから。

 望み通りにしてやれよ。何をされてもいいと言ってるんだから。

 

 

「美沙……」

 陽祐は立ち上がり、美沙の身体に手を伸ばした。

 だが、その手が触れる寸前、美沙は後ずさりした。

「……だめだよ、やっぱり」

 寂しげに笑う。

「こんなの、ただの夢だもん。そんなの、お兄ちゃんの本当の気持ちじゃないもん」

 美沙は陽祐に背を向けて、部屋を飛び出した。

「――美沙っ!」

 陽祐は叫び、あとを追って廊下に出る。

 

 ――ドオォォォォンンン!

 

 ガラスの砕ける音が響いた。

 思わず足を止め、吹き抜けに面した窓を見る。

 全てのガラスが砕け散り、ロビーへ向けて降っていた。

 天窓のガラスもことごとく砕け、雨のようにロビーへ降り注いでいる。

 美沙を振り返る。

 駆け去る彼女の身体からバスタオルがはだけて落ち、裸の背が見えた、次の瞬間。

 白い裸身が黒く変じ、その背は丸まり、手足は縮こまり――

 黒い狼の姿に、変貌した。

 

 

 狼は咆哮して跳躍し、ガラスを失った窓からロビーへ飛び降りた。

「……美沙っ!」

 陽祐は窓に駆け寄り、ロビーを見下ろす。

 ガラスの雨が降るロビーに、黒い狼は軽やかに着地すると、もうひと声、咆哮した。

 建物全体が、鳴動した。

 壁面の意匠タイルがバタバタと落下して、コンクリートの地肌が露出した。

 バーカウンターの棚のグラスやボトルが、床に落ちて粉々になった。

 ロビーのガラスの橋が崩れ、池に落ちて水しぶきを上げた。水中照明がショートしたらしくバチバチと明滅して消えた。

 世界が崩壊し始めていた。

「……くそっ!」

 エレベーターを見る。扉が開いていたが、中の照明は消えていた。使えそうもない。

 どこかに非常階段があるだろう。

 廊下を走る。非常口を示すランプを見つけ、その下のドアを開けた。

 階段を駆け下りた。各階のドアに、その階数を示す表示があった。

 三十一、三十、二十九……

 激しい揺れに、足元をすくわれそうになった。蛍光灯が消え、薄暗い非常照明に切り替わった。

 手すりに手をかけ、早足で階段を下りていく。

 二十八、二十七……

 二十六階でドアを開けた。そこがロビーだった。

 砕けたガラスやコンクリート片やパネル材などが散らばるロビーの真ん中に、黒い狼が立って、咆哮を繰り返していた。

 そのたびに建物が揺れ、破壊された建材がロビーに降り注いだ。

 コンクリートの塊が、陽祐の鼻先をかすめて足元に落ちた。

「――――!」

 思わずのけぞり、非常口まで後ずさる。ドア枠の下にいれば、少なくとも頭は守れそうだった。ビル全体が崩れ落ちなければだが。

 世界の全てが崩壊しなくても、このビルが崩れただけで、陽祐は現実世界に戻れないことになりそうだった。

 ここまでリアルだ。夢の中でも、たぶん、死ねるな。

 世界を終わらせる狼に自ら変貌した美沙を、止める方法はあるだろうか。

 ……ないな。これが、俺の受ける報いだ。

 美沙の気持ちを聞かされながら、煮えきらない態度で、彼女を傷つけた。

 きっぱり最後まで拒絶するべきだった。

 それができないなら、さっさと受け容れてやるべきだった。

「……崩壊が始まりました」

 いつの間にか、そばに麻生が立っていた。いや、麻生の姿を借りた正体不明の女だ。

 陽祐は答えて言った。

「てめえに言われなくても、わかってる」

「でも、まだ間に合います。《アーティファクト》さえ見つけ出せば、あなたも美沙さんも助かります」

「この期に及んで、まだ捜せってのか? 無理だ、間に合わねーよ。俺の部屋の机の引き出しだ」

「捜してみますか?」

 微笑みながら、女が言った途端。

 ――カシャンッ!

 何かのスイッチを切り替えたような金属的な音が聞こえて、陽祐は後ろを見た。

 そこにはホテルの非常階段があるはずだった。

 だが、そこにあったのは、陽祐の部屋だった。

 本棚は倒れ、中の漫画や文庫本が床にぶちまけられて、その上に天井から外れた照明器具が落ちていた。ガラスが割れた窓の外は、夕日に照らされた見慣れた町並みだった。

「なっ……?」

 陽祐は狼が咆哮を続けるロビーを振り返り、次いで女の顔を見た。

「この世界に少しばかり干渉させてもらいました」

 笑顔で説明する女に、陽祐はあきれ果てて、

「こんなことして、崩壊を早めちまうんじゃねーのか?」

「もう壊れ始めてますし、《アーティファクト》さえ見つかればいいんですから」

「くそっ。捜せばいいんだろ!」

 陽祐はそこにあるはずがなかった自室に駆け込んだ。

 机の引き出しを上の段から引っぱり出して、中身を床にぶちまける。

 散らばった文房具の中に古いキーホルダーがあった。

 だが、置き物らしいものは見つからない。

 扉が開いていたクロゼットを覗き込んだ。床に散らかった本の山も掘り返してみた。

 それらしいものはなかった。

「美沙の学校の教室だ! 連れて行け!」

 ――カシャンッ!

 再びスイッチを切り替えたような音がして、次の瞬間、陽祐は学校の教室らしい場所に立っていた。

 いままで一度も訪れたことはないが、ここが美沙の通う女子高の教室なのだろう。ただし、本物そっくりに作られた、夢の世界のニセモノだ。

 陽祐の高校の教室と、それほど違うところはない。しかし窓は全て割れ、机や椅子の並びは乱れて、いくつかの机から中身の教科書やノートが床に落ちていた。

「美沙の机はどこだ?」

 陽祐は、教室の前の戸口に立った女にたずねる。

 女の後ろにはホテルのロビーが見えていた。だが、戸口の隣の割れた窓からは、学校の廊下が見えている。夢の世界の空間をねじ曲げたのか。

「窓側から二列目の、前から三つ目です、美沙さんの記憶では」

 言われた机に駆け寄り、中を覗き込んだ。

 教科書が何冊か。引っぱり出してみると、音楽や被服や保健といった予習が必要ないような科目ばかりだ。あとは家に持ち帰っているのだろう。

 さすが優等生。全教科、教科書もノートも学校に置きっぱなしの自分とは違う。と、感心している場合じゃないか。

「ロッカーは?」

「廊下です。扉にネームプレートがついています。鍵の番号は『595』です」

 後ろの戸口から廊下に出た。

 ロッカーはほとんどが扉が開いて、中身のジャージやスニーカーや水着などが、割れた窓ガラスにまみれて床に散乱していた。

 クラスメートのロッカーの中まで再現したのは、やり過ぎだろう、この世界。

 美沙のロッカーはすぐに見つかった。ダイヤル錠がぶら下がっているところだけ探せばよかった。

 番号を合わせて鍵を外し、扉を開ける。中身はジャージと裁縫道具セット。

「俺たちの中学!」

 陽祐は叫んだ。

 ――カシャンッ!

 切り替わった先も、学校の廊下だった。しかし、見覚えのある中学校の廊下だ。

 並んでいるのは三年生の教室である。美沙は三年のとき、確かA組だった。

 A組の教室を目指して、廊下を駆け出す。

 だが、世界が大きく揺れて、陽祐は転んだ。

「――イテッ!」

 窓ガラスの破片の上に手をついてしまった。

 手のひらを見る。ぱっくりと二センチばかり傷口が開いて、血が流れ出している。

 それで、ようやく気がついた。

 

 

「元のホテルに戻せ!」

 陽祐は叫んだ。

 ――カシャンッ!

 陽祐は、非常階段からロビーへの入口に、元通り立っていた。

 厨房へ向かって走り出した。答えがわかったのだ。

 狼は咆え続けるばかりで、陽祐に反応を示すことはないようだった。

 照明器具らしい金属部品の塊が眼の前に落下して、一瞬だけ足を止めたが、すぐにそれをよけて、再び走り出した。

 現実世界では一流シェフが腕を振るっているであろう厨房で、陽祐は包丁を探した。すぐに見つけた。

 誰にも渡したくない宝物は、肌身離さず持ち歩く。

 陽祐の質問に、美沙が自分で答えたのだ。

 望み通りの夢の世界を作ってくれた《アーティファクト》も宝物の一つだろう。

 だが、それをどうやって肌身離さずにいられたのか。

 さっきはバスタオル一枚。川では水着姿。

 どこに何を隠せたというのだ?

 そして、美沙の宝物は《アーティファクト》だけだろうか?

 そんなはずはない。自惚れかも知れないけど。

 陽祐は厨房から外に出た。

 狼に変貌した美沙を見て、続いて麻生の姿をした女を見た。

 Tシャツをめくり上げ、包丁を両手で握り、覚悟を決めて、自分の腹に突き立てた。

「――――!」

 言葉どころか声にもならなかった。

 口から舌を突き出し、咳き込んで、血の塊を吐き出した。

 これは夢だ。この世界から脱出さえできれば、自分は死なない。傷一つ負わない。

 そう思ってみても、とんでもない激痛だった。

 どうしてここまでリアルなんだ。

 床に膝をついた。だが、まだ終わりにはできない。

 戦国武将の切腹の作法で、包丁を横に引く。歴史小説を読んでいてよかったと思う。そうじゃなきゃ、自分の腹を裂くなんて思いつかなかった。

 真っ赤な血があふれ出した。腸が傷口からはみ出した。

 それと一緒に、野球ボールほどの大きさの血まみれの球体が、床に転がり落ちた。

 どんぴしゃだ。

 美沙が肌身離さなかった「宝物」――つまり兄の身体の中に《アーティファクト》も隠されていたのだ。

 腹の中にこんなものがあって気づかなかったのが不思議だ。そこが魔法なのか。

 麻生の姿をした女は、陽祐が《アーティファクト》を手にしたら、すぐに自分にもわかると言った。ならば、最初からわかっていたのではないか、隠し場所がここだと?

 それを自分から告げなかったのは、言ったところで、その時点では陽祐が信じないと思ったのだろう。

「あなたのおなかを切り裂いて、中にある《アーティファクト》を渡してください」

 いきなりそう言われて、従っていたわけがない。

 無理やり腹を裂こうとしなかっただけ、良心的だったということか。

 陽祐が最後まで《アーティファクト》の在り処に気づかなかった場合には、どうしていたか、わからないけど。

《アーティファクト》を拾い上げた。

 血に汚れたその表面を、手で拭ってみる。

 金色の金属製で、表面には地球儀のように陸地の輪郭と経緯線、それに、人間の眼のかたちが彫り込まれていた。

 これが望み通りの夢の世界を作る魔法の道具か。いかにもそれらしいデザインであることに、胡散臭さを感じる。

 こんなものが自転車のカゴに入っていたら、自分なら、その場で捨ててしまう。だが、手を触れた途端に妖しい力の虜にされてしまうのでは、たまらない。

 しかし、いまは手にしていても、取扱説明らしいイメージは伝わってこない。

 この世界での陽祐は、本来は夢に閉じ込められている魂だけの存在だからか。

 自称コレクターの女に、にやりと笑いかけた。

 相手は微笑み返す。《アーティファクト》を渡してもらえるものと思っているのだ。

 そうはいくか。

 悪いが、麻生そっくりの顔をしたおまえに、渡してやるわけにいかねーんだ。

 陽祐は手にした《アーティファクト》を、黒い狼に向かって放り投げた。

「――美沙っ!」

 力が入らなかったせいか、それは床の上でバウンドして、しかし辛うじて狼の足元まで転がった。

 狼に変貌した美沙が、初めて陽祐のほうを向いた。

「もう一度、おまえが望む世界を作れ!」

 愛する妹に、陽祐は呼びかけた。

 

 

 そうさ。

 この世界が壊れかけてるなら、もう一度、新しい世界を作り上げればいい。

 世界を作ることが人間には負担だ?

 負担にならないように、六畳一間の世界でいいじゃねーか。

 そこで、二人きりで暮らすんだ。美沙と俺で。

 夢じゃ満足できないって? だったら、夢から覚めなきゃいい。

 永遠に覚めない夢なら、現実とどう違いがあるってんだ?

 もう綺麗ごとは言わない。好きにしていいと言うんだから、好きにさせてもらう。

 妹だと思って遠慮しねーぞ。おまえがそれでいいと言うんだから。

 その代わり、罪悪感なんか忘れさせてやる。それくらい、俺も本気になってやる。

 おまえはメシの支度だけしてくれれば、それでいい。あとは、俺に任せとけ。

 

 

 陽祐は床に手をついた。もう体を起こしていられなかった。

 その場に仰向けに転がった。

 荒い息をしながら、ガラスを失った天窓から覗く、朱に染まった空を見上げる。

 黄昏時、一日の終わり。

 この世界の終わりも、近づいている。

「……お兄ちゃん」

 美沙がそばに来た。

 人間の姿に戻っていた。白い裸身が眼に毒だ。

 涙をあふれさせ、美沙は床に膝をついて、陽祐の手を握った。

「ごめんなさい……、美沙は……」

「今度はどんな世界にするか考えたんだ。おまえに無理なら、俺に作らせてくれ」

「もう、いい……」

 美沙は首を振った。

「夢は、夢だもん。そんなことわかってた。だけど、手放せなかった。現実の世界じゃ、決して叶わない夢だから。夢だとわかっても、できるだけ長く見ていたかった。でも、もう終わり。美沙が手に入れたのは、きっと悪魔の道具だったんだよ。お兄ちゃんを、こんなに苦しめて……」

「…………」

 陽祐は微笑んだ。

 美沙の頭を撫でてやりたかったが、そんな力は残っていないようだ。

「一番苦しんだのは、おまえだろう。俺こそ、ごめんな……」

 言葉だけを、辛うじて伝えられた。

「お兄ちゃんが謝ることないよ。悪いのは全部、美沙だから……」

 美沙は涙ぐんでいる。

 眼の前が暗くなってきた。意識が遠のいてきた。

 いや、この世界自体が終わろうとしているのだ。

 美沙の泣き濡れた顔も、闇に溶け込もうとしている。

「世界が終わるときは、おまえのやりたいことに、つき合うと言ったけど……ごめん。この世界では、ちょっと間に合いそうもない……」

 陽祐の言葉に、美沙は最後に笑顔を見せた。

「世界は終わらないよ。悪い夢が終わるだけ」

 

 

 ――そして、二人で見続けた夢は終わった。

 

 

   第八章  陽祐(二)

 

 

「――陽祐。ねえ、陽祐」

 揺り起こされた。

「もうじき着くよ。ねえってば」

「あ……、ああ」

 眼を開ける。向かいの窓の外に、海が見えた。

 普通電車の車内。陽祐は、ロングシートに腰かけていた。

「ひどいよ、陽祐。ずっと美沙の肩を枕にしてるんだもん。腕がしびれちゃった」

 隣で笑うのは、美沙だった。

 二人で海へ来たのだ。

 電車はゆるやかに減速した。

 陽祐は立ち上がって、網棚から二人のバッグを下ろす。

 駅に着いて、ホームに降り立った。

 潮の匂いがした。ここからも海が見えるから、当然か。

「腕しびれたー、バッグ重いー」

 美沙が騒ぐので、

「貸せよ」

 その手からバッグを取り上げる。

「えへへ」

 途端に、美沙は満面の笑みで、陽祐の腕に抱きついた。

「重いよ、おまえ」

「美沙を枕にしたお返しだよ。さ、出発出発」

 美沙に腕を引っぱられ、陽祐は苦笑いで歩きだす。両手にバッグを提げた上に、美沙がしがみついていては、歩きづらいのだけど。

 駅前には、釣り舟屋や釣具店が並んでいた。

 陽祐と美沙は、バス乗り場へ向かう。日よけの屋根の下に石のベンチがあって、小綺麗な造りだ。

 時刻表を見ると、目的地へのバスは三十分後だった。

「タクシー来ないかな?」

 辺りを見回す美沙に、陽祐は渋い顔で、

「バスで三十分かかるんだぜ。タクシーで行ったら料金いくらだよ?」

「そっか。本当は車がなきゃ行かないようなところだもんね」

 この辺りの海は岩場が多く、釣り客には人気だが、大きな海水浴場はない。

 だが、小さな浜辺をプライベートビーチのように整備した、ダイバーと海水浴客向けの民宿があるのをネットで見つけて、陽祐が美沙を誘ったのである。

 八月の最初の土曜日から、一泊二日の旅だった。

 二人きりで泊まりがけの旅行は、初めてだ。

 美沙は陽祐の顔を見て、悪戯っぽく笑った。

「パパの車、借りて来ればよかったね。陽祐、運転できちゃうもんね?」

 陽祐は苦笑いして、

「パパというのは、どっちのパパの設定だ?」

「美沙がパパと呼ぶんだから、美沙のほうでしょ。陽祐のパパとは別人だよ、もちろん」「娘とのデートのために彼氏に車を貸してやるほど、お人よしな父親はいねーだろ?」

「わかんないじゃん。美沙のパパ、やさしいんだよ。陽祐、会ったことないでしょ?」

「できれば会いたくねーけどな、彼女の父親なんて」

 陽祐は答えて、美沙と二人で笑い合う。

 それは、美沙が提案したゲームだった。

 この旅行の間、陽祐と美沙は、恋人同士として振る舞うのだ。

 もちろん、手をつなぐより先には踏み出さない、プラトニックな関係として。

 

 

 それで美沙が満足できるのかは、わからない。

 美沙の思いを、自分には受け容れてやれない思いを、陽祐は知っているのだ。

 これほど残酷なゲームは、ないのかもしれない。

 けれども、それが美沙の望みであるのなら。

 自分ができる範囲で、応えてやりたいと思う。

 夢はいつか覚める。

 ゲームも、いつかエンディングを迎える。

 美沙だって、それを知っているはずだから――

 

 

 夏休み前、七月中旬。

 夢の世界から解放された陽祐は、自分の部屋のベッドで目を覚ました。

 カーテンの隙間から差し込む日が明るい。

「……お兄ちゃん」

 ベッドの横に、パジャマ姿の美沙が膝をついていた。微笑みながら、

「よく寝てたよ、お兄ちゃん。こっちに帰ってから、ずっと」

「そっか……」

 枕元に置いていた携帯を見た。

 木曜日の朝六時。

 当然のようだが、腹に痛みはない。

「……おまえは、起きてたのか?」

「眠れなかったよ」

 微笑みのまま、美沙は眼に涙をにじませた。

「お兄ちゃんに、謝らなきゃと思って……」

「もう謝ったじゃねーか。夢の中でさ」

 陽祐は体を起こし、美沙のやわらかな髪を、くしゃっと撫でた。

 美沙は、こそばゆそうに眼を細める。

 陽祐は言った。

「泳ぎ、まだちゃんと教えてやってねーよな。夏休みになったら、海に行こうぜ」

「え……でも、予備校は」

「俺だって勉強ばかりする気にならねーよ。夏休みの楽しさに味をしめたし」

「そっか」

 二人で笑い合う。

 笑いながら、美沙は涙を拭う。

「……学校、遅刻しちゃうね。早く着替えなきゃ」

 美沙は言って、立ち上がった。

「お兄ちゃんも、急いでね」

「ああ」

 うなずいた陽祐に微笑みかけ、美沙は部屋を出て行きかけた。

 だが、戸口で足を止めて、振り返り、

「……お兄ちゃん」

「ん?」

「ありがとう」

 美沙はもう一度、涙を拭って微笑むと、部屋を出て行った。

 

 

 制服に着替えて、ダイニングへ降りていった。

「おはよう、陽祐」

 キッチンで弁当を詰めていた母親が声をかけてきて、続いて、テーブルについていた父親と美沙も、

「おはよう」

「おはよう、お兄ちゃん」

「おはよーっす」

 陽祐はあいさつを返して、テーブルについた。

 両親の顔を見るのは久しぶりだった。もちろん、相手はそうは思ってないだろう。

 美沙は笑顔で何気ない様子を装っている。朝まで眠れずに兄の部屋にいたことは、兄妹だけの秘密だ。

 母親が用意した朝食はフレンチトーストとオムレツとサラダだった。

「いただきます」

 陽祐は手を合わせて、食べ始める。

 ビール好きの不良オバンだが、料理には文句がつけられない。これと遜色ない料理を作れるのだから、美沙もたいしたものだ。

 母親の大酒飲みなところは、真似しないでほしいけど。

「あのさ」

 父親に向かって、言ってみた。

「夏休みに、美沙と海に行こうと思うんだけど」

「あら、いいわね、海。家族旅行もしばらくしてないし」

 弁当の支度を終えた母親が、席に着きながら言う。

 しかし陽祐は、

「二人で行こうと思うんだ。いいだろ、オヤジ?」

「まあ、いいんじゃないか」

 父親は答えて、コーヒーに口をつける。

「あら、つまんない。あなたたち二人きりなの?」

 不満そうな母親に、陽祐は苦笑いして、

「兄妹で旅行なんて滅多に行けるもんじゃねーだろ。たまにはいーじゃん」

「つまんない。私たちもどこか行きましょうよ、パパ」

「うーん、そうだなあ……」

「もうっ、パパに任せてたら話が進まないわ。あなたたち、いつ出かけるか決まったら、教えなさい。その日に合わせて、こちらも計画立てるから」

 盛り上がっている母親に、陽祐は美沙と顔を見合わせて、くすくす笑った。

 

 

 その朝もまた、駅の改札の前で、麻生と出くわした。

「あれぇ? おはよーございまぁーっす。陽祐センパイって、毎朝この時間?」

「おまえはこの時間じゃなかったよな、いままで?」

 陽祐が言うと、麻生は笑って、

「前はもっと遅かったんですけどぉ、遅刻の回数、やばくなってきたんでぇー……」

「一年の一学期からそれじゃ、しょうがねーな、おまえ」

 陽祐は、あきれた顔をする。

 とはいえ、自分も麻生に話したいことがあったから、ここで会えたのは好都合だ。

 ホームへの階段を上りながら、陽祐は言った。

「こないだの、俺がいまフリーかどうかって話な」

「あ、はいっ?」

「もうフリーじゃなくなったから。今度きかれたら、そう言っといてくれ」

「え……そうなんですかぁ?」

 麻生は、きょとんとした顔をする。

「受験だから、そんな暇ないって言ってたのに」

「いろいろあったんだよ。熱烈な告白を受けたりな」

 陽祐は眉をしかめて、

「ただ、相手もまだ自分の言ってることがわかってないガキみたいな奴だし。しばらく、のんびりつき合っていく感じかな。それで相手の気が変わるなら、それでもいいし」

「年下……なんですか、相手の人?」

「まあな。それ以上は、きくな」

「ふーん……」

 麻生は首をかしげている。

「それってなんだか、普通につき合うのとは違う感じ。たとえて言うなら、家庭教師の大学生が、教え子の小学生に告白されちゃったみたいな?」

「それに近い感覚かもな」

 陽祐は苦笑いでうなずいて、

「だけど、いい加減につき合うつもりは、俺にはないから。だから、もうフリーじゃないってことだ」

「わかりました」

 麻生は、にっこりとした。

「なんだか、安心しました。先輩らしいなぁって」

「なんだそりゃ。おまえに言われても褒められた気がしねーぞ」

「そうですかぁ……」

 麻生は苦笑いする。

 ホームはいつものように混み合っていて、陽祐は麻生と並んで電車を待った。

「きのうの、時間の話の続きですけどぉ?」

 麻生が言って、陽祐はきき返す。

「あん?」

「時間そのものは巻き戻せないとしても、過去の出来事の結果だけ変えられるとしたら、どうですか?」

「……おまえ、本物の麻生か?」

「えっ?」

 眼を丸くする麻生に、陽祐は眉をしかめて、

「時間や過去がどうのって、そういうキャラじゃねーだろ、おまえ?」

 麻生は「あはっ」と声を上げて笑った。

「じゃあ、どういうキャラですかぁ、あたしはセンパイから見て?」

「結果がよければ、それでいいって考えじゃねーの? もし、おまえが言うようなことが本当にできたとしたら、何も悩まず自分の都合のいいように結果を変えまくるだろ」

「そんなこと……ないですよぉ」

 苦笑いして、

「学校の成績なら結果を変えて、親を喜ばすのもアリですけど、たとえば水泳の大会で、満足いく泳ぎができなかったのに表彰台に上がれたことにするのは、むなしいですし。スタートからやり直せるなら、別ですけどぉ」

「やり直すなら練習からじゃねーの? でなきゃ、結果は一緒だろ」

「そうですねぇ」

 麻生はくすくす笑う。

 それから、ふと考え込むように、

「いっそ、本気でインハイ目指そうかな。いまからじゃ来年になっちゃうけど……」

「それこそ、らしくねーよ、おまえ」

 陽祐はあきれて言った。だが、すぐにつけ足して、

「……まあ、本気で言ってるなら応援してやらんでもねーけど」

「会場まで来てくれます、来年のインハイ?」

「本当に出場できたらな。どうせOB会で召集かかるだろうし」

「ああ、OB会かぁ……。そうですねぇ……」

 麻生はうなずいている。

 電車がホームに滑り込んで来た。

 ドアが開き、並んでいた客たちが、順番に乗り込み始める。

 陽祐も前に進んだが、麻生は足を止めたままだった。

「センパイ、先に行っちゃってください」

「おまえは?」

 振り向いてたずねた陽祐に、麻生は曖昧に笑って、

「友達と待ち合わせ……というかぁ」

 地元の駅で誰と待ち合わせるというのか。

 陽祐には疑問だったけど、後ろの客に背中を押され、麻生を残して電車に乗り込んだ。 ドアが閉まって、電車はゆっくりと動き出す。

 窓越しにホーム上を探したけど、麻生の姿は見えなかった。

 

 

 そして、八月最初の土曜日――

 どこかで鳴いている蝉の声を聞きながら、陽祐と美沙は並んでベンチに座り、民宿へ行くバスを待っていた。

「……何か、飲み物買って来るね」

 思いついたように美沙が言って、バッグを置いて立ち上がった。

「俺が買って来るよ」

 陽祐も立ち上がると、美沙は苦笑いして、

「ついでにトイレ行きたいから。駅で借りれるよね」

「俺、緑茶な」

「割り勘だよ」

 笑って言い残し、駅へ戻っていく美沙を、陽祐はベンチに座って見送る。

 駅舎の前で、ちょうど出て来た若い女とすれ違い、美沙は中に消えた。

 女はこちらへ歩いて来る。

 旅行客だろうか、随分と大荷物だ。大きなリュックを背負った上に、両手にトートバッグを提げている。服装は水色のワンピースで、麦わら帽子をかぶっている。

 近づいて来た女の顔を見て、陽祐は、どきりとした。

 麻生に似ていると思った。

 だが、よく見れば麻生より髪は長く、眼は大きくて童顔な印象だ。長身なので、年は陽祐と同じか、少し上のようにも見える。

 女がバス乗り場まで来たので、陽祐は再び立ち上がった。

 美沙のバッグをベンチの端に寄せて、場所を空けてやる。

「どうぞ」

「すいません」

 にっこりしながら、女は会釈して、ベンチに腰を下ろした。

 よほど荷物が重かったのか、「ふうっ」と、ため息などついている。

「次のバス、二十分後ですよ」

 陽祐は教えてやった。

「そうですか。ありがとうございます」

 女は笑顔で答えると、トートバッグを体の横に立てかけるようにして置く。

 だが、柔らかなバッグはすぐに倒れて、中の荷物がいくつか地面に転がった。

 歯磨きセット、化粧ポーチ、書店のカバーのついた文庫本。

 そして、絵筆のようなもの――それは、陽祐の足元まで転がってきた。

 拾ってやろうと陽祐が腰をかがめると、

「あ……触らないで!」

 女が叫んだが、遅かった。

 

 

 手を触れた途端、陽祐は、それがどんな力を持つ存在か知ってしまった。

 

 

 陽祐は、ぽかんと口を開けて、絵筆を眺めた。

 筆先は白く、まだ一度も使われていないようだ。軸は金色の金属製で、時計の模様がいくつか並べて彫り込んである。

 女の顔を見て、言った。

「……あんた、夢に出て来た麻生のニセモノか?」

「えっと……」

 女は苦笑いして、

「素知らぬ顔で通そうと思ったんですが」

「こいつは過去を書き換える《アーティファクト》だって? もしかして、その大荷物の中にも、妙な魔法の道具がいろいろ入ってるのか?」

「うちの別荘がこの近くにあるんです。普段使わないものは、そちらに置くことにしています。そうしないと、すぐ物がいっぱいになっちゃうから」

「偶然なのか? ここで、あんたと俺たちが顔を合わせたのは?」

「《アーティファクト》には、お互いを引きつけ合う性質があるんです。あなたの場合、魂が《アーティファクト》に触れ続けていた影響が、まだ残ってるんだと思います。だって、普段は釣り好きの人しか来ない、こんな場所に旅行に来てるんですから」

「穴場の民宿を見つけたつもりだったんだけどな、俺としては」

 陽祐は仏頂面をした。

 女は苦笑いのまま、

「ところで……それ、返して頂けないでしょうか?」

「ああ……」

 陽祐は絵筆としか見えないそれを女に渡そうとして、手を止め、

「過去に戻れるんじゃなくて、書き換えるだけってのは、どういう意味だ?」

「時間を巻き戻せるほどの力を持った《アーティファクト》は、まだ出現していません。世界に与える影響が大きすぎますから。ですが、過去まで遡らずに結果だけを書き換えるなら、この《アーティファクト》で可能なんです。たとえば、不合格だった大学を合格したことにするとか」

「受験生を誘惑するような、たとえ話だな」

 陽祐は苦笑いしながら、手にした《アーティファクト》を、じっと見つめる。

 真顔になって、たずねた。

「……たとえば、美沙と俺が、血がつながってなかったことにもできるのか?」

「できちゃいます」

 答えた女は、陽祐の横顔を見つめている。

 陽祐は、ため息をついた。

「やっぱり、悪魔の道具だな。それをした途端に、俺か美沙のどちらかが、オヤジやオフクロとは親子じゃなくなるんだ。そして、俺自身には、親子の縁を切っちまった罪悪感が残る。自分の記憶までは書き換えられねーみたいだからな、取扱説明によれば」

 陽祐は女に《アーティファクト》を差し出した。

「おまけに、いまのオヤジやオフクロ以外の他人が実の親ってことになっちまうんだ。気味が悪いだろ、そんなの?」

「もう一つ方法がありますよ。兄妹でも結婚できるよう、法律を書き換えちゃうんです」「…………」

 微笑んでいる女の顔を、陽祐は、あきれたように見た。

「誘惑してるのか? 悪魔の手先か、あんたは?」

「道具なんて、使い方次第です。《アーティファクト》は、誰がどんな考えで作っているか、わかりません。でも、それ自体に持ち主を必ず不幸にするような、しっぺ返しの機能はついてないです」

「使い方を間違えて、不幸になる奴もいるんだろ、使い方次第ってことは?」

「普通の人は、そうなるかもしれません。でも、陽祐さんのような使い方なら」

「いいから、さっさと受けとれ。怒るぞ」

「すいません……」

 女は苦笑いして、絵筆に似た《アーティファクト》を受けとった。

「でも、そういうオチもアリだと思ったんです。二人きりの世界が、夢オチでしたから」「オチとか言うな。これで世界が終わるわけじゃねーんだ、美沙と俺にとっては」

「すいません」

 笑っている女に、陽祐は、もう一度ため息をついて、たずねた。

「本当に何者だ、あんた? 普通の人は不幸になるとか言って、自分は普通じゃねーみたいな口ぶりだけど」

「あまり普通じゃない人間です。でも、陽祐さんも普通じゃないですよ。一度は手にした《アーティファクト》を、あっさり手放すなんて。そういう人が、ほかにもいないわけじゃないですけど」

「俺は……」

 答えかけたとき、美沙が駅舎から出て来るのが見えた。

 きょろきょろ辺りを見回して、釣具店の前の自販機を見つけ、そちらへ歩いていく。

 陽祐は言った。

「俺は、ただの小心者だよ。《アーティファクト》もいらなきゃ、据え膳も食わねーなんて、格好つけてるけどさ。本音は臆病で手が出せないだけだ。罪悪感に耐えきれねーだろうと思ってさ」

「格好つけてるだけでも、それを貫き通せば本物ですよ」

「そんな自信もないけどな。知ってるだろ? 夢の中で、俺は一線を踏み越えかけた。現実で同じことをしない保証はないぜ」

「あなたは大丈夫ですよ。それに、美沙さんも。私にはわかります」

「未来がわかる《アーティファクト》でも持ってるのか?」

 陽祐が言うと、女は悪戯っぽく笑った。

「さあ、どうでしょう?」

「もう一つ、きいてもいいか?」

「どうぞ。答えられない質問には答えませんけど」

「それじゃ身も蓋もねーな」

 陽祐は笑って、

「過去を書き換える《アーティファクト》も、うちの近所に出現したのか? 《アーティファクト》は、お互いを引きつけ合うって言ったよな?」

「必ず近所に出現するわけじゃないですよ。もしそうなら、一つの町が《アーティファクト》だらけになっちゃいます。でも、おたずねの《アーティファクト》に関して言えば、陽祐さんの考えている通りです」

「そっか……」

 タクシーが一台走って来て、駅舎の前で停まった。

 釣り客らしい三人連れを降ろしているのを見て、女は立ち上がり、

「あれ、空車になりますね。私、乗って行っちゃいます」

「ああ。それじゃ……」

 陽祐は手を上げ、苦笑いして、

「できれば、もう会いたくねーな。あんたと顔を合わせると、また《アーティファクト》に関わることになりそーだ」

「お元気で。美沙さんとのご旅行、楽しんでください」

 女は笑みを返し、重そうな荷物を抱えて小走りにタクシーのほうへ駆けて行く。無事に乗り込んで、タクシーは走り出した。

 ペットボトルのお茶を両手に、美沙が戻って来た。

「いまの人、誰?」

「このへんに別荘持ってるんだと。バスがまだ時間があるって教えてやったら、タクシーで行くとさ」

「別荘持ってるくらいなら、車で来ればいいのに」

「学生っぽかったぞ」

「そっか」

 美沙はベンチに腰を下ろし、陽祐はその隣に座った。

「はい。お金はあとでいいから」

 お茶を差し出されて、

「どうも」

 陽祐はそれを受けとり、キャップを開けて、一口飲む。

「……陽祐」

「ん?」

 振り向こうとした陽祐に、

「あ、待って。そのまま」

 美沙は、陽祐の横顔に顔を近づけると、

 ――ちゅっ。

 その頬に、キスをした。

「……おいっ!」

 眼をむいた陽祐に、美沙は「えへへ」と笑って、

「ほっぺたなら許されるでしょ? 陽祐も、美沙のほっぺにしてもいいよ?」

「しねーよ」

「しないの? つまんない。してくれないと、今度は寝てる間に唇にしちゃうよ」

「寝てる間なら、夢みたいなもんだ」

「もうっ、陽祐ってば」

 美沙はふくれ面をしてみせたけど、すぐに、くすくす笑い出した。

 陽祐の腕に抱きついて、

「……美沙、ね」

「ん?」

「お兄ちゃんの妹に生まれて、よかったよ」

「そっか」

 陽祐は素っ気なく答えたけど、耳が熱くなっていた。

「子供の頃からの許婚として生まれていたら、もっとよかったけど」

 悪戯っぽく笑う美沙には、どこまでゲームかわからない危うさがあった。

 でも。

 俺たちは、大丈夫だ。

 あの、おかしな道具のコレクターの女が言ったからではなく。

 夢の世界から、二人で、ちゃんと帰って来たんだから。

 美沙が陽祐の手を握った。

 陽祐は、ほんの少し力を入れてその手を握り返し、空を見上げた。

 八月らしく入道雲が湧いた、青い空。

 海に入るのが待ち遠しかった。

                                  (終わり)